今年の旅日記
松山城〜『坂の上の雲』〜
昭和27年(1952年)5月26日、水原秋桜子は道後温泉から城山に登る。
二十六日朝、松山市城山に登る
樗咲けり古郷波郷の邑かすむ
『残鐘』
松山市余戸南の出合橋に句碑がある。
昭和30年(1955年)、ロープウェイ設置。
昭和41年(1966年)、リフト設置。
昭和43年(1968年)、本壇の建造物群を木造により復元。
道後温泉からロープウェイ東雲駅舎まで歩く。
リフトに乗って山頂駅「長者ヶ平(ちょうじゃがなる)」へ。
巽櫓
松山城の石垣
隠門続櫓が見える。
戸無門前から天守を望む。
松山市街を見下ろす。
大観覧車「くるりん」が見える。
大街道を見下ろす。
三越デパートが見える。
本丸広場の紅葉
本丸広場から見る天守
艮門
艮門・艮門東続櫓
艮門と同東続櫓は、本丸の北東(艮方向)に配置された脇戸付の櫓門と二重櫓で、城の東側の防衛を担っています。また、ここから出撃し、大手や搦め手に迫った寄手の背後を急襲するという役割も担っていたと考えられます。
創建時期はわかりませんが、明治時代に取り壊されたようで、昭和59年(1984年)3月に復元されました。
艮門の下から見上げる。
大河ドラマ『坂の上の雲』のオープニングで、「三人の男がいた。」のは、ここである。
まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている
四国は伊予松山に、三人の男がいた。
この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたっては勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を滅ぼすにいたる作戦をたて、それを実施した。
その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団をやぶるという奇蹟を遂げた。
もうひとりは、俳句、短歌といった日本の古い短詩型に新風を入れてその中興の祖となった正岡子規である。
彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう。
『坂の上の雲』
春は、工事中で見られなかった。
天守
今日は天守には登らず、紫竹門へ。
重要文化財 紫竹門
紫竹門は、本丸の大手と搦手を仕切る脇戸付高麗門で、本壇北側にあった中仕切り門とあわせ、搦手を固める重要な門です。
門の両側には、それぞれ紫竹門東塀と同西塀が接続し、搦手に備えるため北を正面としています。門の前面、小天守下に紫竹が植えられていたことからこの名が付けられ、また扉の上下は堅格子となっており、そこから外を覗き見る工夫がなされています。
創建時期はわかりませんが、紫竹門東塀並びに同西塀とともに天明4年(1784年)の落雷で天守とともに焼失し、嘉永期(1848〜1854)に再建されたと考えられています。
昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
この門を過ぎて左折すると、搦手の入口である乾門に達します。
乾門東続櫓
北隅櫓・南隅櫓
乾門
乾門は、本丸北西に位置する脇戸付の櫓門で、搦手の防衛の要めです。
本丸大手の筒井門と同様に、慶長年間(1596〜1615年)の築城時に正木城(伊予郡松前町)から移築されたと伝えられ、通路や石垣、建物の配置など筒井門とよく似ています。
城内最古の建造物の一つで、昭和10年(1935年)国宝に指定されましたが、同20年(1945年)7月に戦災で焼失しました。昭和54年(1968年)に門の両側の石垣が解体修理されたあと、同57年(1982年)11月に、門柱には樹齢300年の栂(つが)が、また梁には直径35cmの松が用いられ、築城時の壮大さを取り戻しました。
焼失前には、明和5年(1768年)と墨書された棟札が見つかっており、同東続櫓と一緒に修理されたことがわかっています。
古町道を下る。