頼朝公の馬がこの石に前足を掛け、ひづめの跡を残したことから、駒どめの石といわれる。
また、文明11年(1479年)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城のさい、関東の安泰を祈って参拝し、社殿の修理を行った。更に天正19年(1591年)には、徳川家康が社領として朱印五十二石を供御(くぎょ)して崇敬している。
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社 殿

明治維新の神仏分離のときまでは、当宮境内にし上野東叡山寛永寺の末寺が別当寺として存在した。現存する鐘楼は往時を物語る貴重な遺物である。また、山門の仁王像は移されて、その後に左右両大臣像が置かれ、随神門とよばれるようになった。この随神門は市指定文化財である。
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随神門

本殿の東側にそびえる「千本公孫樹(いちょう)」は天然記念物として国の指定を受け、また寛政5年(1793年)に発掘された元亨(げんこう)元年(1321年)在銘の梵鐘は県指定の文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえる。
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千本公孫樹(いちょう)

昭和54年3月
市川市教育委員会
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文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は葛飾八幡宮のことを書いている。
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八幡の里の八幡宮は、馬手(めで)の方の林中に在ておくまりたる宮居也。八幡宮は一宮・國分二寺・安國寺などやうにいづれの國にもありといへり。
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