2005年千 葉

行徳街道〜常夜燈〜

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 2月の末だが、3月末から4月初めの陽気である。市川の行徳辺りを歩いてみようと思って、出掛けた。

 東京メトロ東西線行徳駅を降りると、「市川散歩道行徳塩浜みち」の案内板がある。


行徳駅から江戸川に向かうと、押切の稲荷神社があった。

押切の稲荷神社


右に公孫樹(いちょう)の巨木が見える。

江戸川沿いの道を歩くと、常夜灯があった。


常夜燈


市川市教育委員会の詳しい説明が書いてある。

常夜燈

 行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を江戸へ運ぶために開発された航路も、やがては人や物資の輸送に使われるようになった。この航路の独占権を得たのが本行徳村で、寛永9年(1632年)この場所に船着場を設け、新河岸とよんだ。この航路に就航した船数は、当初16艘であったが、寛文11年(1671年)には53艘となり、嘉永年間(1848〜54)には62艘にふえた。

 これらの船は明け六ツ(午前6時)から暮れ(午後6時)まで江戸小網町から、ここ行徳新河岸の間を往復したので、行徳船と名づけられて、その間3里8丁(12.6キロ)という長い距離を渡し船のように就航したところから、長渡船(ながとせん)ともいわれた。

 行徳船を利用した人たちには、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡辺崋山、大原幽学など、歴史上、また文学史上著名な人物も多く、特に文化文政(1804〜30)の頃からは、行徳を訪れる文人墨客や、当時ますます盛んになってきた成田山参詣の講中(信者の仲間)たちによって、船着場は非常な賑わいをきわめたのである。

 貞亨3年(1686年)、大淀三千風は行徳から香取神宮を右に見て、鹿島神宮を訪れた。

 行徳・白井・大森、木颪のなみにゆられ、右は下總香取の神、常陸の湖水にながれこし、志田の浮島、浮洲の宮、旅のとまりは鹿島なる、大舶着にぞあかりける。


 貞亨4年(1687年)8月14日、芭蕉は鹿島詣の旅で江戸を発ち、行徳で舟を上がる。

 いまひとりは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく、門よりふねにのりて行徳といふところにいたる。


 元禄9年(1698年)3月17日、天野桃隣は江戸を立ち、行徳まで川船に乗る。

 既今年三回忌、亡師の好む所にまかせ、元禄九子三月十七日、武江を霞に立て、関の白河は文月上旬に越ぬ。

      首途

   何国まで華に呼出す昼狐

 江戸より行徳まで川船、木颪へ着。


 享保元年(1718年)8月14日、千梅林亜請は鹿島に向かう途次行徳で船をあがる。

行徳にいたり塩浜を詠

   絵て見たる塩屋に来たり秋の暮


 宝暦3年(1753年)、横田柳几は行徳から舟で両国橋へ。

行徳よりふたゝひ舟に乘て兩國橋に著ぬ。ほと近けれはと松籟庵を訪ふ。あるし打咲て一椀の茶を投す。


 宝暦9年(1759年)、大島蓼太は門人眠江に誘われて鹿島詣の旅に出て、行徳に泊まる。

   行徳夜泊

低うなる時はうつゝか夜の雁   眠江


 寛政3年(1791年)4月8日、一茶は行徳から乗船して中川の関に入った。

 今に残るこの常夜燈は、文化9年(1812年)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田講中が、航路の安全を祈願して新勝寺奉納したものである。

 高さ約4.5メートル、現在の位置は堤防構築のため、多少移動はしているが、かつて繁栄した時代の新河岸の面影をとどめる唯一のものである。

市川市教育委員会

江戸名所図会より「行徳船場」


行徳街道を歩くと、笹屋うどん跡がある。

笹屋うどん跡


市川市教育委員会の簡単な説明が書いてあった。

笹屋うどん跡

 本行徳の笹屋は、江戸時代うどん屋として繁盛した店でした。船着場近くに位置していたため立ち寄る旅人も多く、紀行文などにも記されています。

市川市教育委員会

今では笹屋のうどんが食べられないのが残念だ。

江戸名所図会より「行徳船場」


  


行徳四丁目の河岸なり。土人新河岸と唱ふ。旅舎ありて賑はへり。江戸小網町三丁目の河岸よりこの地まで、船路三里八町あり。この所はすべて房総・常陸(じやうりく)の国々への街道なり。

『江戸名所図会』(行徳船場)

 寛政13年(1801年)6月19日、伊能忠敬は第2次測量で江戸を出発。中川御番所から行徳へ。

 文政8年(1825年)6月29日、渡辺崋山は江戸小網町の行徳河岸を船出、三又から逆井、中川船番所、船堀、新川を経て、行徳へ。

芭蕉の句碑へ。

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