芭蕉の句碑
海くれて鴨の聲ほのかに白し
海上
(うなかみ)
八幡宮に芭蕉の句碑があるというので、行ってみることにした。
ヒゲタ醤油工場
から国道356号(利根水郷ライン)行くと、総武本線松岸駅がある。
文化14年(1817年)6月、小林一茶は銚子から小南(千葉県香取郡東庄町小南)を訪れる途中、松岸を通りがかる。
遊女めが見てケツカルぞ暑い舟
釣竿を岩に渡して日傘哉
画団[扇]
(うちは)
やあつかまし[く]も菩薩顔
天から下りた顔して団[扇]
(うちは)
哉
『七番日記』(文化14年6月)
松岸には遊女がいた。
銚子往来の旅人此河岸より揚がる。淫肆有りていと繁昌なる地なり。
赤松宗旦『利根川図誌』(巻6)
総武本線松岸駅を過ぎると、海上
(うなかみ)
八幡宮があった。
海上八幡宮参道
海上八幡宮本殿
海上八幡宮は社伝によると平安時代初期の大同2年(807年)豊前宇佐八幡を勧請し、造営した。祭神は、譽田別尊
(ほんだわけのみこと)
、大帯姫命
(おおたらしひめのみこと)
比賣神
(ひめのみこと)
3柱の5柱を合祀しする。江戸時代は社領30石を有し、海上郡
(うなかみごおり)
60余郷の総鎮守として栄え、総社八幡宮と称した。
八幡宮の境内を探しても芭蕉の句碑は見当たらない。
八幡宮本殿から長い参道を戻って、芭蕉の句碑を探し当てた。
海くれて鴨の聲ほのかに白し
出典は
『野ざらし紀行』
。
貞亨元年(1684年)12月、熱田で詠まれた句。
文化2年(1805年)4月、建立。
文化二乙丑年四月日 無物庵造立
蘆の穗に五日はかりの月夜かな
存亞
います如くいのらはなとか神の留守
前神主 宮城
一茶も芭蕉の句碑を見たと思う。
嘉永5年(1852年)1月7日、吉田松陰は利根川を下って
息栖
に至り、松岸に泊まっている。
流に順ひて下ること三里、息栖に至る。日已に沒せり。陸に登りて飯を喫し、反りて舟に登り、又下ること六里、松岸に至れば則ち夜已に二鼓なり、陸に登りて宿す。
松岸に歸りて宿す。往復四里。
『東北遊日記』
安政5年(1858年)3月29日、赤松宗旦は海上八幡宮に参詣している。
芝崎村
海上八幡宮 参詣。
同神主
松本長門
江
立寄。
赤松宗旦
『銚子日記』
4月3日、宗旦は銚子の帰りにも海上八幡宮を訪れたようだ。
三日雨 四ツより晴
けふハ芝崎村の
海上八幡宮の御田植祭有。
至て賑ハし。
赤松宗旦
『銚子日記』
芭蕉の句碑
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