「芭蕉句碑」


此里は気吹戸主の風寒之

神栖市息栖に息栖神社がある。


参道左手に芭蕉の句といわれる碑があった。


此里盤気吹戸主の風寒之

出典は『風俗文選犬註解稿本』。嘉永3年(1850年)、介我編。

存疑句である。

生栖大明神広前」と前書きがあるそうだ。

忍潮井(おしおい)や月も最中の影ふたつ
   小見川
 梅庵

風はなを啼や千鳥の有かぎり
   乃 田
 笙々

 「忍潮井」は日本三霊水のひとつとして知られているそうだ。

 「笙々」は香取市小見川の水神宮に芭蕉の句碑を建立。利根川を渡ると、小見川である。

芭蕉句碑

 この里は気吹戸主(いぶきとぬし)の風寒し

 俳聖といわれた松尾芭蕉が、水郷地方を訪れたのは、貞享4年(1687年)8月14日で、親友・鹿島根本寺の仏頂和尚の招きで、鹿島の月を眺めるためであった。

 この旅で根本寺・鹿島神宮・潮来長勝寺と水郷地方を訪ねまわった彼は、息栖地方にも足をのばしたもののようである。この句碑は、小見川梅庵・乃田笙々といったこの地方の俳人らによって建てられたもので、その年月は不明である。

 句の意味するもの

 いざなぎの尊が、黄泉の国(死の国)から戻ったとき、筑紫日向の橋の小門(おど)で、身体を洗い、きたないものと汚れたもの(罪や穢れ)を、すっかりそそぎ落し、浄め流した。その流れの中から生まれたのが気吹戸主(息栖神社祭神)で、清浄化・生々発展・蘇生回復の神である。

 このいわれにあやかって、この神域に身をひたしていると、身も心も洗い浄められて、何の迷いも曇りも、わだかまりもなくなり、体の中を風が吹き抜けるほど透き通って、寒くなるくらいである。

といった、息栖神域の醸し出す風趣・威懐といったものを詠みあげたものであろう。

  昭和61年3月

神栖町教育委員会

2005年8月1日、神栖町は波崎町を編入、神栖市となった。

息栖神社


 享保元年(1718年)8月25日、千梅は息栖神社を訪れている。

風追手を吹てほとなく息栖の神前にいたりぬ宮路さひしく鹿島香取の両宮には又やうかはりて幽なる御前のけしき社頭花表唯水のうへに浮ミ 本社拝殿も外物なく左に神宮寺有扉落は月常住の灯をかゝくといへらむ風情也本地は薬師如来地并観音不動毘沙門天五体各々和光し給ひ息栖五処の太神宮と称し奉る也折しも後の松山にしくれて人のまいらぬ日神へもまいりたるよしと吉田の何かしか書たる思ひ合せて神さひとうとさ浅からす

   鴫鴎和光のかけをやとりかな


 宝暦3年(1753年)、横田柳几は息栖神社に詣でた。

息栖明神に詣。汀に女瓶男瓶のふたつあり。是を忍塩井といふ。潮みち來る時を清水わかれて瓶中にありと聞て、奇異のおもひをなす。


 宝暦9年(1759年)8月15日、大島蓼太は鹿島詣の途中で息栖神社に参拝している。

息栖法楽

磯にふたつの石瓶あり忍潮井と名つく満来る時はかくれなから清水を湛ふとあれは

をしほ井の和光や波と水の月
   蓼太


 明和元年(1764年)11月20日、内山逸峰は息栖大明神に参詣、泊まっている。

 霜月廿日の暮がたに息栖大明神へまうでて、今夜は此所にやどる。明る朝、をしほゐの水といふを見しに、磯よりはたひろ斗沖の方へ出て、塩(潮)海の中より清水のわき出る也。伊勢の国領に忍穂井(おしほゐ)といふは有ときけど、ひたちとはきかね共、先打むかふ所いと珍らかなれば見るに任せて、

  わたつみのうへは塩(潮)にて底きよみ人こそしらねを(お)しほ井の水


 明和8年(1771年)5月26日、諸九尼は息栖神社に参詣している。

廿六日 舟をかりて、息栖の明神へ参る。鳥居の前の海に石の瓶二ッ有、清水わき出づ、潮にもまじらず清く涼し、御汐井となん申す。神のいかに誓ひおはしましてやと、いと尊く覚え侍る。


 安永7年(1778年)8月19日、横田柳几は篁雨を伴い再び息栖神社に参拝した。

大船津迄人々に見送られてわかる銚子浦へ船を雇ふて乗折から追風にて帆を上けれは程なく息栖に船を着て神前を拝し忍汐井を見る

息栖明神の磯に女瓶男瓶とて二ツの寄(ママ)石有男は径一丈余銚子の形也女は五六尺計土器に似たり此石干潟には(ママ)出る中は素水也 諸国里人

   心ある人みせはやひたちなる息栖の浜の忍潮井の水

鶺鴒や女瓶おかめのをしへ鳥
   柳

ねき言につれるや虫の藻にすたき
   篁


 天保7年(1836年)、大原幽学は息栖神社を訪れ、芭蕉の句碑を書き写しているそうだ。

 嘉永5年(1852年)1月7日、吉田松陰は利根川を下って息栖に至り、松岸に泊まっている。9日、息栖に泊まる。

 午前(ひるまえ)宮本家を出で行くこと一里、牛堀に至り、舟を刀根川に泛(うか)ぶ。刀根川は源を上野に發し、浩々蕩々として銚子口に至り海に注ぐ、俗に所謂坂東太郎是れなり。常總は是の川を界と爲す。流に順ひて下ること三里、息栖に至る。日已に沒せり。陸に登りて飯を喫し、反りて舟に登り、又下ること六里、松岸に至れば則ち夜已に二鼓なり、陸に登りて宿す。

九日 晴。舟にて刀根川を沂り、息栖に宿す。舟行六里。


 安政5年(1858年)3月28日、赤松宗旦は息栖明神に参詣している。

   息栖海中に鳥居有。
   そのきわに瓶(かめ弍ツ)あり。

   けふは空晴て瓶よく見ゆ。
   壱ツの瓶ハ鳥居建替の時
   うつもれたりとて見へず。

 息栖明神   参詣

赤松宗旦『銚子日記』

息栖神社は、鹿島神宮香取神宮とともに東国三社として崇められている。

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