延暦年間に坂上田村麻呂が蝦夷平定の帰途、社殿を造営したと伝えられるそうだ。 |
『もとの水』、『風羅袖日記』、『奥の枝折』、『俳諧一葉集』に収録されているが、一般に存疑の句とされている。 |
明和2年(1765年)、白井鳥酔は野木神社に詣で「河千鳥塚」を見ている。 |
河千鳥塚 寶暦辰仲冬三日徳雨建 在社頭南隅樹下 |
自然石正面に「一疋のはね馬もなし河千鳥」といへるはせを翁の遺章とて□す。アゝ鼻祖の徳光今海内に輝きて、かゝる邊際に至る迄景慕する事の尊くて泪睫にあまり侍る。聊鄙言を墓下に諷ふのみ。 |
秋のくれ馬も千鳥もなかりけり | 鳥醉 |
明和9年(1772年)、横田柳几は野木神社に参詣、「川千鳥塚」を見ている。 |
社内念仏堂の側に徳雨子か建られし祖翁の川千鳥塚あり |
栃木県では佐野女子高校の「菖蒲塚」に次いで古い「芭蕉」の句碑であろう。 |