芭蕉の句碑愛 知


水鶏鳴と人乃云へ者や佐屋泊

愛西市佐屋の佐屋街道沿いに八幡社がある。


八幡社


 貞亨4年(1687年)12月、芭蕉は『笈の小文』の旅の途上、佐屋から舟で桑名に向かった。

 さやよりおそろしき髭など生たる飛脚めきたるお(を)のこ同船しけるに、折々舟人をねめいかるに興さめて、山々のけしきうしなふ心地し侍る。

元禄7年(1694年)5月25日、芭蕉は露川に送られて名古屋から佐屋を訪れた。

八幡社の北西側に「水鶏塚」がある。


水鶏塚由来記

 元禄7年5月芭蕉翁が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ藪のほとりで木の間がくれに水鶏が鳴いた。翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集まり千載不易の高吟が続いた。そのときうたわれた初の句が

   水鶏鳴と人の云へばや佐屋泊   はせを

である。翁逝って40年余後さきに坐を共にした人達により、翁がうたったこの現地でそのときうたった句を石にきざみこみこの碑がたてられた。ときに正に享保20年5月12日のことである、

昭和35年大字佐屋故黒宮庸氏の御意志によってこの水鶏塚(土地共)は黒宮家から佐屋町へ寄贈された。

   昭和60年3月26日 佐屋町文化財指定

 佐屋町教育委員会

「水鶏塚」


水鶏鳴と人乃云へ者や佐屋泊

出典は『笈日記』(支考編)。

隠士山田氏の亭にとゞめられて」と前書きがある。

 『ありそ海・となみ山』(浪化編)には「露川が等(ともがら)、さやまで道おくりして、共にかりねす。」と前書きがある。

 享保20年(1735年)5月12日、鳴風館吟山建立。夏雪溪氷虫筆。銘文は月空居士露川

「千鳥塚」に次いで全国で2番目に建てられた芭蕉の句碑である。

夏雪溪氷虫は犬山藩士で祐筆、神谷九左衛門。

右側面

芭蕉翁伊賀の國の産にして氏は松尾を繼く風雅を季吟老人に傳ハリ一生不住の狂客也東南西北の風に移り逍遙する事三十餘年元祿八のとし皐月の初予師の行脚を此佐屋の宿に送り山田何某の亭に五日をとゝめて水鷄の一巻を殘す其縁にひかれて此里の俳士竹の茂り麻の育に似たりそれか中に寄潮宇林摩を取れは等龜志宣助力を加へ吟山施主となつて墳を築き碑を建其銘を乞

「元祿八のとし」は元禄7年。「五日をとゝめて」とあるが、実際は1泊。

陰 陰

師や誦盡すたはふれ歌を情に轉し姿に移す
師やあまさかる枕言葉を今玉味噌木曾路に變す
師や驕(※リッシンベン)慢邪智に迷へるを教へて正風自在となす
師や實に居て虚に遊へるを歎して世に風雅の聖とす

   月空居士露川

『諸国翁墳記』に「水鶏塚 尾州佐屋駅在 吟山建」とある。

記念集『水鶏塚』を刊行。

2005年4月1日、佐屋町は合併で愛西市となった。

史跡 水鶏塚

 元禄7年(1694年)、俳聖芭蕉が江戸から故郷伊賀の国への帰郷の途中に、佐屋の門人であった素覧亭に逗留した折に詠んだといわれる『水鶏鳴くと人のいへばや佐屋泊』の句。この句碑は、その場に同席した俳人達が、その後享保20年(1735年)5月12日に芭蕉の遺徳をしのんで建てたといわれています。

 昭和35年(1960年)故黒宮庸氏の御遺志によってこの水鶏塚(土地共)は黒宮家から寄贈されました。

愛西市教育委員会

 「佐屋町教育委員会」と「愛西市教育委員会」の説明を併せて読むと、「隠士山田氏」は「佐屋の門人であった素覧」で「佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏」ということになる。

「素覧」と「山田庄左衛門」は別人であるという説もある。

三輪素覧は名古屋の人。通称は四郎兵衛、四郎太夫。

宝暦6年(1756年)4月、白井鳥酔は水鶏塚を訪れている。

水鷄啼くと人のいへはや佐屋泊と聞へたる旅寢の吟は、元禄遷化のその年の夏誰かれ陪して此驛山田氏名は伴右衛門といふ をあるしとせられける時の事也とそ。予ことし東海道を歩遊し見るに、水鷄聞ん宿は全く外にあらしと爰に來て猶々感す。されはこそ天下の風士皆しつて仰くもの泰山北斗の如し、むかしは韓愈か没して後其言盛に行はるゝにもひとしからん。享保乙卯の六月吟山子を礎とし巨桃寄潮等龜志宜等合信して一簀の土を重ねつゝ築て塚を水鷄と呼ふ。所はかの山田氏か宅の跡今は吟山子か持つ門外の畠也 東隅に南北十間あまり東西八間はかりなる地を卜す、驛を去る事僅百歩に過す。東は耕作の細道を隔て八幡の社に隣り、三方は田なり畠也、晝も水鷄の走る溝川なり。塚上の碑面には其遺章を彫み、其銘は月空居士か筆を揮てあはれふかし。是を拜み見るには其神燈明らかに照して常に絶す、櫻も枯す松もつれなからす、白樫榎なんと蔚々と葺に似ておのつから雨露を漏さす、牛馬も心あれはにやさらにふます村童も手を入れすして精露を守る。まことに所を得たるといふへし。大なるかな祖翁の徳や、行先々にかゝる記念あり。しはしは碑前にかしこまりて立去る事を忘るゝのみ。水鷄なくといへる人は何ものそや、世を宇治山といへる人は誰そや。火を水に入いひなすとおもへる俳諧といへとも、利口は風雅につたなきものにや。鳩ほとゝ人はいふなりかんこ鳥とありし柳居先師の一章もいふ人はしらす、長安に下馬陵あるを聞は爰にも又さみしみに遊ふ、膝栗毛の旅客はかならす杖をとゝめ笠をぬいて拜す。時に寶暦第六丙子の孟夏十又九日主人吟山子か需に應す。鳴風館南窓碧玉竹の陰に於て東都散人百明坊記す。


安永3年(1774年)4月、井上士朗は上京の途上水鶏塚を訪れている。

ゆくゆく船つとふ津島の川つたひ水鷄なく佐屋の驛に入て爰に芭蕉翁の墳を拜す

『幣ふくろ』

句の刻まれていない「水鶏塚」もあった。


荻原井泉水の筆になるものだそうだ。

昭和3年(1928年)5月、井泉水は露川亭跡を訪ねている。

露川辞世の句碑もあった。


秋を余所にまつや十帰千かへり

 明治26年(1893年)12月3日、池原魚眠洞は鳥取県気高郡鹿野町に生まれる。

 大正7年(1918年)、井泉水門に入る。

 昭和9年(1934年)、種田山頭火は津島の池原魚眠洞に案内されて水鶏塚へ。

 昭和14年(1939年)4月14日、種田山頭火は魚眠洞宅に泊まる。

『視界』主宰。

昭和62年(1987年)2月13日、没。行年94歳。

 昭和18年(1943年)5月14日、山口誓子は佐屋の八幡社を訪れて水鶏塚を見ている。

 昔、東海道は、宮(熱田)から海路、桑名へ渡った。七里の渡しである。ところが海が荒れた日は陸路、佐屋へ廻った。佐屋廻りである。熱田神宮の北、尾頭(おとう)の分岐より西へ、岩塚・万場・神守(かもり)を経て佐屋に到る。行程六里。

   (中略)

   水鶏鳴と人の
               芭蕉翁
   云へばや佐屋泊

 句碑の立っている四十坪のその地面に素覧の亭があった。元禄七年五月二十五日、芭蕉が露川達と名古屋から佐屋に来たとき、この亭に泊ったのだ。素覧は露川の門下。

 佐屋川には水鶏が鳴くと人の云うゆえに佐屋に来て泊った。句の表には詠ってはいないが、一夜の仮寝に水鶏の声を聞いたのだ。

 享保二十年の建立。虫繰のその書はたしかで、好もしい。


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