時は戦国、室町末期。村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文22年(1553年)4月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別かれ城を後にしたのでした。義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。
千曲川辺に来た義清公の奥方たちは、この川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探してわけを話したところ、船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。
村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったということです。
中部北陸自然歩道
環境省 長野県 |
安永9年(1780年)3月22日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、笄の渡しのことを書いている。
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笄の渡しといふは、其比村上と申大将の軍やぶれたるに、其女房の落行が、こゝの渡し守にとらすべき料足のなかりければ、頭にさしたる玉の笄を手づからぬきてあたへしよりいふとなり。
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戸倉上山田温泉へ。
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