芭蕉の句碑長 野


いさよひもまた更科の郡かな

上田から国道18号を下ると、坂城町苅屋原に苅屋原ミニパークがある。


苅屋原ミニパークに芭蕉の句碑があった。

芭蕉翁


いさよひもまた更科の郡かな

出典は『更科紀行』

坂城で十六夜の月を詠んだ句とされる。

安永3年(1774年)4月、高桑蘭更門人指月庵鉄舟建立。蘭更揮毫。

鉄舟は坂木宿の医者児玉玄長。本名は児玉八朗右衛門。

 『諸国翁墳記』に「十六夜塚 信州埴科郡坂木駅横吹在 加州半化坊連中建」とある。

同年3月、加舎白雄北向観音堂に芭蕉の句碑を建立している。

中村伯先は姨捨山の帰途、「十六夜墳」を見ている。

鼠宿に十六夜墳を拝し、塩尻に又祖翁の古塚に合掌す。


 寛政8年(1796年)8月、生方雨什は横吹で句を詠んでいる。

   横吹峠目前

蟷螂やいざり車に草隠れ


 文政7年(1824年)5月、川村碩布は「善光寺詣」の旅で十六夜塚を訪れている。

 坂木の宿くねり過て漸雨紅か軒を見出しぬ、十六夜塚を拝し姨捨山を栞に虎杖庵に着、先梨翁の墓に香をひねりて

   螢火も田に呼水も手向哉

 十六夜塚は横吹八丁の山道に建てられたが、崖崩れで行方不明になっていた。

 北国街道の横吹坂は、高い山の中腹を通っている険しい道で、山の下は千曲川が突き当たって急な流れとなっていた。

   横吹にて

夏山やくたり終(わ)れは船わたし   乕杖


 文政12年(1829年)、十六夜観月殿に芭蕉の句碑を再建。

 天保14年(1843年)、横吹の芭蕉句碑が土中から発見され、現在地に再建した。

高桑蘭更の句碑もあった。


よこふきや駒もいななく雪あらし   二夜庵

享和元年(1801年)、鉄舟建立。

二夜庵は蘭更の別号。

飯山市の綱切橋東に「はせを」の句として、この句の碑がある。

小林一茶の句碑もあった。


よこ吹や猪首に着なす蒲頭巾

横吹や猪首に着なす蒲頭巾

『八番日記』(文政3年11月)

千曲川


(こうがい)の渡し

 時は戦国、室町末期。村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文22年(1553年)4月、ついに居城の葛尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別かれ城を後にしたのでした。義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。

 千曲川辺に来た義清公の奥方たちは、この川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探してわけを話したところ、船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。

 村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったということです。

 中部北陸自然歩道

環境省 長野県

  安永9年(1780年)3月22日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、笄の渡しのことを書いている。

笄の渡しといふは、其比村上と申大将の軍やぶれたるに、其女房の落行が、こゝの渡し守にとらすべき料足のなかりければ、頭にさしたる玉の笄を手づからぬきてあたへしよりいふとなり。


戸倉上山田温泉へ。

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