「芭蕉句碑」


正月も美濃と近江や閏月

岐阜県関ヶ原町今須の県境にオーツカ関ヶ原工場がある。


オーツカ関ヶ原工場の駐車場に「芭蕉」の句碑があった。


正月も美濃と近江や閏月

出典は『もとの水』存疑句である。

昭和53年(1978年)12月23日、芭蕉翁顕彰會建立。

貞享元年12月野さらし紀行の芭蕉が郷里越年のため熱田よりの帰路23日ころこの地寝物語の里今須を過ぐるときの吟

「野ざらし紀行」の旅で今須宿を過ぎたのは晩春であろう。

中山道今須宿 野ざらし芭蕉道」の碑があった。


年暮れぬ笠着て草鞋はきなから   はせを

句が書いてあるから、句碑ということにする。

JR関西本線新堂駅の前にこの句の碑がある。

郷里の伊賀上野で詠まれた句であろう。

平成16年3月、芭蕉翁顕彰会建立。(株)オーツカ協賛

芭蕉41歳の「野ざらし紀行」の旅は、貞享元年甲子秋8月から翌2年4月末にかけて行われた。この間美濃には元年9月下旬大垣の木因訪問、12月下旬熱田より迎春帰郷と翌2年3月下旬岐阜親鸞木瀬草庵訪問の三たび足跡を印した。
高橋清虚識

「おくのほそ道芭蕉道」の碑もあった。


 違和感もあるが、芭蕉は『奥の細道』の旅で敦賀から今須宿を過ぎて大垣に入ったはずである。

松尾芭蕉は元禄2年陰暦2月末日深川の芭蕉庵を人に譲り、杉風の採荼庵に移る。3月20日曽良を伴って深川を出船、千住に揚り江戸屋に逗留。27日奥の細道の旅に出る。山中温泉で曽良と別れ、8月14日敦賀に入る。18日ころ大津より出迎の路通を伴い大垣に向かう。途中郷里伊賀上野に立寄り、大津を経て27日美濃に入る。今須・山中を経て28日赤坂虚空蔵に詣で、大垣に至る。9月3日を落着の日と定め、門人らの歓迎俳諧が巻かれ、旅の結びとし、6日伊勢の遷宮拝まんと、また船に乗り旅立った。

この旅の記を文学作品とすべく、俳諧師芭蕉は、俳諧百韻の形式に倣い構成、推敲に推敲を重ね、元禄7年「おくのほそ道」と題した俳諧紀行文を完成した。
高橋清虚識

かなり無理のある行程である。

「おくのほそ道」の俳文碑


   おくのほそ道

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。(略)

   行春や鳥啼魚の目は泪

ことし元禄二とせにや。
奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、(略)

若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、
其日漸、草加と云宿にたどり着にけり。(略)

名月はつるがのみなとにとたび立(略)

十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。
その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや(略)

種の浜に舟を走す。(略)侘しき法花寺あり。(略)

露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。
駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より来り合、
越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。(略)

其外したしき人々、日夜とぶらひて、
蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。
旅の物うさもいまだやまざるに、
長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、
又舟にのりて、

   蛤のふたみにわかれ行秋ぞ   芭蕉

碑の裏に素竜の跋文がある。

      跋

からびたるも艶なるも、たくましきも、はかなげなるも、おくの細道もて行に、おぼえず、たちて手をたゝき、伏て村肝を刻む。一般は簔をきるきる、
かゝる旅せまほしと思立、一たびは坐して、
まのあたり奇景をあまんず。かくて百般の情に、鮫人が玉を翰にしめしたり。旅なる哉、器なるかな。
只なげかしきは、かうやうの人の、いとかよはげにて、眉の霜のをきそうふぞ。

   元禄七年初夏            素竜書

寝物語の里へ。

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