貞享元年12月野さらし紀行の芭蕉が郷里越年のため熱田よりの帰路23日ころこの地寝物語の里今須を過ぐるときの吟 |
芭蕉41歳の「野ざらし紀行」の旅は、貞享元年甲子秋8月から翌2年4月末にかけて行われた。この間美濃には元年9月下旬大垣の木因訪問、12月下旬熱田より迎春帰郷と翌2年3月下旬岐阜親鸞木瀬草庵訪問の三たび足跡を印した。
高橋清虚識 |
違和感もあるが、芭蕉は『奥の細道』の旅で敦賀から今須宿を過ぎて大垣に入ったはずである。 |
松尾芭蕉は元禄2年陰暦2月末日深川の芭蕉庵を人に譲り、杉風の採荼庵に移る。3月20日曽良を伴って深川を出船、千住に揚り江戸屋に逗留。27日奥の細道の旅に出る。山中温泉で曽良と別れ、8月14日敦賀に入る。18日ころ大津より出迎の路通を伴い大垣に向かう。途中郷里伊賀上野に立寄り、大津を経て27日美濃に入る。今須・山中を経て28日赤坂虚空蔵に詣で、大垣に至る。9月3日を落着の日と定め、門人らの歓迎俳諧が巻かれ、旅の結びとし、6日伊勢の遷宮拝まんと、また船に乗り旅立った。 この旅の記を文学作品とすべく、俳諧師芭蕉は、俳諧百韻の形式に倣い構成、推敲に推敲を重ね、元禄7年「おくのほそ道」と題した俳諧紀行文を完成した。
高橋清虚識 |
おくのほそ道 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。 古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。(略) 行春や鳥啼魚の目は泪 ことし元禄二とせにや。 奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、(略) 若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、 其日漸、草加と云宿にたどり着にけり。(略) 名月はつるがのみなとにとたび立(略) 十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。 その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや(略) 種の浜に舟を走す。(略)侘しき法花寺あり。(略) 露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。 駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曽良も伊勢より来り合、 越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。(略) 其外したしき人々、日夜とぶらひて、 蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。 旅の物うさもいまだやまざるに、 長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、 又舟にのりて、 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 芭蕉 |
跋 からびたるも艶なるも、たくましきも、はかなげなるも、おくの細道もて行に、おぼえず、たちて手をたゝき、伏て村肝を刻む。一般は簔をきるきる、 かゝる旅せまほしと思立、一たびは坐して、 まのあたり奇景をあまんず。かくて百般の情に、鮫人が玉を翰にしめしたり。旅なる哉、器なるかな。 只なげかしきは、かうやうの人の、いとかよはげにて、眉の霜のをきそうふぞ。 元禄七年初夏 素竜書 |