芭蕉の句碑


しばらくは花のうへなる月夜哉

 鹿島神宮からひたすら国道124号を行き、銚子に向かう。銚子大橋を渡って左折し、県道37号銚子停車場線に入る。


飯沼観音(HP)があったので、立ち寄る。


飯沼山圓福寺


真言宗智山派の寺である。

飯沼観音は坂東三十三観音霊場27番札所。

観音堂は戦災で焼失し、1971年に再建された。

観音堂の前に大仏もあった。

 宝暦3年(1753年)、横田柳几は飯沼観音に詣で、句を詠んでいる。

まつ飯沼の觀世音に詣。是も坂東の札所にて莊嚴美麗の大伽藍也。

   蓬植に來る日を海士も浮みけり


 安永7年(1778年)8月20日、横田柳几は再び飯沼観音に詣でた。

飯沼観音和田不動に詣で川口に至り名有石を見る目を放てば東海渺々として霊波天を浸して面白し

   月ひとつ請心よし銚子浦


芭蕉の句碑があった。


しばらくは花のうへなる月夜哉

 高さ1.2メートル余、幅1.4メートルほどの小松石巨碑で、銚子所在句碑の中で最も立派なものだそうだ。

 寛政10年(1798年)建立と推定される句碑が消滅し、天保2年(1831年)2月、松露庵社中が再建した句碑。

右にやや大きく芭蕉の句が書いてあり、その左に7人の句が書いてある。

一つかみ烏のこほす櫻かな
   守黒庵柳居

醉ことは天下はれたり花盛
   松露庵鳥醉

花盛海は靜に暮もせす
   二世 烏明

曇れたゝ櫻かもとに倚やすき
   土龍庵百明

なからへて蛙の聲や秋の雨
   市石庵弄船

花木槿月は翌日あるものなから
   夏霜觀百井

いろいろの有て白菊黄きく哉
   名古曾亭桃源

 「守黒庵柳居」は佐久間柳居のこと。『柳居発句集』に収録されている句である。

 「松露庵鳥醉」は白井鳥酔のこと。本名は白井喜右衛門信興。

 明和2年(1765年)3月、加舎白雄は銚子滞在中に松露庵三世烏明に入門。その後、烏明の師白井鳥酔を知る。

 「二世 烏明」は、よく分からない。松露庵三世烏明であろう。

 「土龍庵百明」は杉坂百明のこと。白井鳥酔門。鴫立庵四世。

 「市石庵弄船」は銚子の俳人寺井弄船。初号名古曽亭。寛保2年(1742年)、柳居に入門。

 「夏霜觀百井」はヒゲタ醤油の8代目田中玄蕃貞胤。

 「名古曾亭桃源」は、不明。弄船の門人と考えられる。

碑陰に萩原秋巌の書で仏頂和尚の禅語が書かれている。

此箇一字子会 麼光是生死心 絶端的是也 仏頂禅師示芭蕉翁語

萩原秋巌は萩原乙彦の養父。

 文化14年(1817年)5月26日、小林一茶は鹿島神宮を訪れ、翌27日午前6時前に潮来を船出して、午後2時過ぎに銚子に入る。その日は吉野屋に泊まった。29日には桂丸と李峰に案内されて、飯沼観音を訪れた。

   七 晴
 卯上刻出船 二百六十四文 未下刻銚子ニ入

 蚕浜蚕社法花新田砂山ノ下有吉野屋ニ泊 喜平次ト云

   九 晴
 桂丸 李峰ト浜一覧ス 観世音飯沼山円福寺ト云坂東廿七番也

『七番日記』(文化14年5月)

 桂丸は行方屋(なめがたや)庄次郎。行方屋は茨城県行方市出身で、銚子の回船問屋。李峰は夏目成美門の俳人。

 寛政10年(1798年)建立と推定される芭蕉の句碑があったとすれば、一茶も見ているはずだが、何も触れていない。

 安政5年(1858年)3月29日、赤松宗旦は銚子で観音前の吉野屋に泊まっている。

 八ツ時頃より芝崎を出て銚子
 行。又松岸を通り本所出ル。

 夫より観音前の
  吉野屋平助へ泊る。

赤松宗旦『銚子日記』

俳人古帳庵の句碑が円福寺本坊にあるそうなので、行ってみる。

芭蕉の句碑に戻る