芭蕉の句碑連 句


松江・桃青・ソラの三吟句碑

小美玉市小川に天聖寺共同墓地がある。


天聖寺共同墓地に本間家一族の墓がある。

 貞亨4年(1687年)8月15日、芭蕉は『鹿島紀行』の旅の帰路、本間家初代の医師道悦を潮来に訪ねて宿泊した。

 道悦は元美濃大垣藩士。島原の乱で負傷して武士をやめ、江戸で医を業とする。芭蕉に医術をおしえたという。晩年は潮来に隠栖した。俳号は松江。別号自準。

本間家六世道意は潮来から小川に移り住む。

 宝暦5年(1755年)、玄琢は小川町下馬場の庄屋村山家に生まれ、本間家の養子に入る。

 寛政5年(1793年)、芭蕉の百回忌に玄琢は本間家に残っていた松江・桃青・ソラの三吟句碑を建立。



   帰路自準に宿ス

塒せよ和ら本す宿の友すゞめ
   松江

  あきをこ免多るく年の指杉
   桃青

月見んと汐引のぼる船と免て
   ソラ

「松江」は本間家初代道悦の俳号。

七世玄琢も「松江」と号した俳人である。

 世ニ俳諧歌有リ、蓋シ国風ノ変ニシテ猶詩ノ近体絶句ノ如シ。則チ是レ一体ニシテ其ノ来ルヤ之ヲ久シクス。芭蕉翁ナル者一タビ出テヨリ天下ノ誹諧ヲ道トスル者翁ヲ折衷ス。世ノ翁ヲ尊信スル者、特ニ誹諧ノ流風ノミナラズ、其ノ筆蹟寸紙ヲ得テハ則チコレヲ宝トスルコト尺壁ノ如シ。

 余ノ門人本間玄琢家ハ芭蕉翁ノ真蹟ヲ多ク藏ス。蓋シ其ノ祖先松江ハ、嘗テ戸田侯ニ仕ヘ美濃ノ大垣ニ於テ蕉翁ト相識リ其ノ道ヲ翁ニ受ク。後官ヲ棄テ刀圭ヲ業トシ常南ニ卜居ス。翁ノ東遊スルヤ本間ノ家ヲ主トシ、且医ヲ松江ニ学ビ道ヲ互ニシ相師トナリ、友情ノ交リ甚ダ密ナリ。其ノ唱和スル所及ビ写本ノ属大イニ富ム。玄琢ノ先人左右叟亦其ノ道ヲ好ミ頗ル名手タリ。阿部豊後侯之ヲ聞テ台見シ寵遇甚ダ深シ。乃チ芭蕉翁ノ真蹟数幅ヲ進呈ス。今尚所伝ノ禁方ノ盟約、並ニ唱和ノ巻册若干ト云ウ。

 玄琢常ニ年月ノ久シク、子孫若シ(※「若シ」は人偏に「尚」)守ルコト能ハザルヲ恐ル。有力者ノ奪フ所トナレバ則チ合浦ノ珠モ再ビ還ラザルナリ。仍テ一石ヲ立テ、其ノ唱和スルモノヲ之ニ不朽ニセント欲シ、因ニ予ニ其ノ由ヲ記センコトヲ乞フ。其意ニ忤(さからふ)ベカラザルモノ有リ。聊カ数言ヲ題スト云ウ。

南陽 原昌克撰并書

文化元年(1804年)、玄琢は「稽医館」を建てる。

 文化9年(1812年)、日向の真彦という神職が小川の松江を訪ねて「翁椀」を贈られた。真彦は喜んで夏目成美に見せた。

 常陸国小川の里松江が家に、芭蕉留錫のころ、常に食をすゝめたる古五器二具あり。文化壬申の年、日向国真彦といふ神職の人、その住る所の翁が岡といふに文明中に勧請せし翁大明神といふ有所祭猿田彦神その社に芭蕉翁を合せ祭ると云事にて、諸国の句を勧進せし頃、松江が家に宿して、此のあらましを語り出るに、主この人の志の深きにめでゝ右の五器の中、汁碗ひとつをおくれりとて来り示してこれをよろこぶ。はなはだ古雅なる器なれば左に図す。

『随斎諧話』

 文化14年(1817年)5月23日、小林一茶は小川を訪れ、芭蕉の「真筆」や本間家の「翁椀」を見ている。24日は本間家に泊まり、25日、帆津倉に泊まる。

[廿]三日 晴 高浜本間松江ニ入 氏神画馬 小川 今出屋惣八泊

[廿]四日 晴 本間ニ入

『七番日記』(文化14年5月)

その時の一茶の真跡が残されている。

   けふといふけふ久しくねがひ
   ける本間の家を訪ひて
   はせを翁の書のかずかずに
   目を覺しけるが其外に又手に
   ふれ給ひし一品有

したはしやむかし
      しのぶの翁椀

   文化十四年五月廿二日也けり

しなのゝ一茶

文政7年(1824年)4月6日、玄琢没。享年70。

墓碑に辞世の句が刻まれている。


閑こ鳥こゝろとむれは風の吹   自準亭七世松江

文政8年(1825年)4月5日、義香建立。

「義香」は玄琢の子道偉の俳号。

道偉は藩医となり、水戸に移り住む。

慶応2年(1866年)正月9日、没。享年80。

義香の句

おもふより安く折せるぼたん哉


あつき日や人あらはるゝ芒原


 明治3年(1870年)6月30日、天聖寺は出火によりことごとく灰燼に帰し、以後復興されることなく、廃寺となった。

芭蕉の句碑連 句〜に戻る