茨城県久慈郡大子町に芭蕉の「八九間空で雨降る柳かな」と「河上とこの川志もや月の友」の2句の碑があるそうだが、場所がよく分からない。 |
お年寄りに聞いてみると、「近くに札所があるから、そこにあるかもしれない。」と言うので、行ってみた。 |
すると、芭蕉の碑を管理している方よりいただいた地元に伝えられている説明書が送られてきた。 |
松尾芭蕉さんが東北へ出てきたときに、芭蕉さんに指導を受けていた醍醐村の俳人が、ここから15km程行った所にある栃木県の禅寺の雲巌寺に投宿して、近くの俳人に指導しているのを聞いて、寺に芭蕉さんを尋ねて指導を受けたらしい。 その時に、世間話の中で、その何年か前の事で「醍醐村にあった悲しい話」をしたらしい。 この話を聞いて芭蕉さんが哀れみ、句に詠まれたのを醍醐村に持ち帰り、句碑に記したものが、この碑にあるものだという。 |
芭蕉さんにした悲しい話とは、 むかし、久慈川を挟んだ袋田村と醍醐村(大子村)の若者同士が恋愛をして、親に結婚の許しを頼んだが、袋田村と醍醐村は仲が悪く、親同士が許してくれず、この世を悲観して、共に久慈川に入水して亡くなった。 「この世では、一緒になれなかったが、あの世の月の近くで一緒になれるでしょう。」とお坊さんの哀れみの心で詠んだ句だそうです。 この上の寺は、千手観音様を祀ってありますから、「仏様の所で一緒になれますように」との心で詠んだ句といわれています。 |
「松尾芭蕉さんが東北へ出てきたとき」とは、奥の細道の旅であろう。芭蕉が「栃木県の禅寺の雲巌寺」を訪れたのは、元禄2年(1689年)4月5日(陽暦5月23日)。 |
深川の末、五本松といふ所に船をさして 川上とこの川下や月の友 |
『茨城の文学碑百選』によると、この句碑は「月川塚」と書かれてあり、文政7年(1824年)、一茶の門人佐藤魚淵が70歳の時に建立したもので、魚淵の句「花咲や達者も老のひとかせぎ」が刻まれているそうだ。 『諸国翁墳記』に「月川塚 常陽久慈郡大子驛益子氏所持之地 魚淵建」とある。 |