芭蕉の句碑愛 知


都出て神も旅寝の日数哉

岡崎市明大寺町馬場東に安心院という寺がある。


 承安4年(1174年)、源義経は金売り吉次に伴われて藤原秀衡のもとに向かう途中、矢作の宿で浄瑠璃姫を知る。

 寿永2年(1183年)3月、浄瑠璃姫は源義経の帰りを待ちきれず、菅生川に身を投じて死んだ。

 文治元年(1185年)、源義経下向のおり、浄瑠璃姫追善の為に瑠璃山明大寺を建立し、馬頭観世音菩薩を安置した。

金宝山安心院


曹洞宗の寺である。

 明大寺の一宇であった旧跡に草庵を結び、御本尊に十一面観世音菩薩木彫り坐像を安置した。その御本尊は義経公の念持仏で、後、浄瑠璃姫に譲られたと伝えられる。

木像釈迦如来坐像は岡崎市指定文化財。

安心院に古い芭蕉の句碑があった。


都出て神も旅寝の日数哉

曲水宛書簡(元禄4年11月13日)冒頭の句である。

 元禄4年(1691年)9月28日、芭蕉は膳所義仲寺を後にして東下の旅に出、10月も末に近い頃沼津で詠まれた句。

曲水宛書簡は蕉門宇古から岡崎の俳人三秀亭李喬に伝わった。

 寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌に三秀亭李喬は岡崎伝馬町の十王堂に芭蕉の句碑を建立。記念集『旅の日数』(李喬編)刊。

三秀亭李喬は岡崎城主本多中務大輔忠良の男忠寛。

 昭和20年(1945年)、戦災で十王堂が焼失したため、忠寛公の墓所がある安心院に移築したそうだ。

 石見国浜田の人丸神社の石を取り寄せたもの。芭蕉直筆の文字が刻まれているそうだが、読めない。

右隣に新しい芭蕉の句碑があった。


都出て神も旅寝の日数哉

平成12年(1990年)12月、安心院九世峯隆建立。

芭蕉の句碑愛 知〜に戻る