芭蕉ゆかりの地


〜上野天神宮〜

伊賀市上野東町に上野天神宮がある。


上野天神宮


昭和45年(1970年)10月、山口誓子は上野天神祭を見ている。

   伊賀上野 天神祭

秋祭鬼面をかぶり心も鬼

白面の爲朝笑止秋祭

『不動』

鳥居の手前右手に「史跡 貝おほひ奉納の社」の碑がある。


昭和48年(1973年)4月、建立。「山口誓子謹書」とある。

寛文12年(1672年)、芭蕉が29歳の時に『貝おほひ』を奉納した社である。

上野天神宮に芭蕉の句碑があった。


   菅社のほとり 薬師寺の会に

初さくら折しもけふはよき日なり

出典は『蕉翁全伝』

昭和44年(1969年)、明治百年記念に菅原神社奉賛会建立。

 元禄元年(1688年)芭蕉45歳の作・季語「初桜」で春。土芳稿『蕉翁全伝』に「薬師寺月並初会」の前書がある。薬師寺は『三国地誌』(藤堂元甫編 宝暦13年成)に、「上野山上坐院。天正年間郭内ニアリ。後廓外ニ移ス。今天神ノ境内ニアリ」とあり、藤堂高虎が城普請にあたり、上野台地にあった薬師寺をこの社殿の傍らに移し別当寺と定めた。伊賀の門人たちが薬師寺において月次句会を催すことになり、『笈の小文』の旅で帰郷していた芭蕉が、その最初の連句会に招かれ、会の前途を祝った句。「初桜」に初会を祝う心をほのめかし、一座への挨拶としている。芭蕉は寛文12年(1672年)29歳のとき、ここ上野天神宮(天満宮とも)へ初めて編んだ俳諧発句合『貝おほひ』を奉納し文運を祈願、俳諧師として世に立つ決意を表している。

 句意は、「境内の初桜がちらほらと咲き初めた日、幸い好天に恵まれたことであるよ。折しも今日は月次会の発足にふさわしい誠に良い日だ。」

貝おほひ顕彰碑


昭和63年(1988年)3月、貝おほひ顕彰会建立。

 伊賀上野の城下赤坂の街に生まれた松尾芭蕉翁は侍大将藤堂新七郎家に仕え、嫡男良忠公(蝉吟)に近仕、ともに北村季吟に俳諧を学んだが、良忠公が亡くなったので暇を乞い、6ヶ年間の遊学の後、寛文12年(1672年)1月25日の自撰の三十番発句合に『貝おほひ』と名づけ産土の神である此処上野天神宮に奉納、俳諧師として世にたつ決心を神かけて江戸に下った。時に29歳であった。江戸に移って6年目の延宝6年、翁は桃青と号して宗匠立机のため俳諧万句を興行、出郷以来の念願ようやく実り、其角嵐雪杉風ら粒ぞろいの門弟をもつ江戸俳壇へと成長した。翁はその後もしばしも留まることなく常に新しい俳諧を求めて旅をつづけ、長い模索のすえ遂に我が国詩歌史に蕉風俳諧という庶民詩を完成された。

 その孤高の理念は人類未踏の孤峯と仰がれ、世界的文豪として崇敬されるに至った。

 ここにその遺徳を敬仰し顕彰の碑を建てる。

 『芭蕉翁全傳』に「正保元甲申の年、此國上野の城東赤坂の街に生る。」とある。

 『奥細道菅菰抄』(梨一著)の「芭蕉翁伝」に「祖翁は、伊賀拓殖郷の産にして、弥平兵衛宗清が末裔。」とある。

木津蕉蔭の句碑


鈴が緒にすがる祈りごと初詣

蕉蔭はホトトギス派地方俳誌『いつき』を主宰。

菊山九園の句碑


初詣芭蕉立志の祈願宮

昭和47年(1972年)1月、菅原神社奉賛会建立。

九園は『ホトトギス』同人。

 昭和18年(1943年)11月23日、芭蕉翁二百五十年忌に高浜虚子が上野市(伊賀市)を訪れ、愛染院の故郷塚で法要、九園宅を訪れている。

十一月二十三日。昨夜は伊賀上野、友忠に泊る。この日愛染院に
於ける芭蕉忌に列席。

 こゝ来てまみえし思ひ翁の忌

 笠置路に俤描く桃青忌

友忠旅館即事

 焚火するわれも紅葉を一と握り

菊山九園居

 掛稲の伊賀の盆地を一目の居


芭蕉ゆかりの地に戻る