石田波郷の句碑


はこべらや焦土の色の雀ども

志演尊空神社の隣に俳人石田波郷宅跡がある。


 俳人石田波郷は、中村草田男や加藤楸邨らと並び人間探求派と呼ばれ、現代俳句を発展させたひとりです。

 波郷は、大正2年愛媛県で生まれました。昭和21年にここ江東区北砂に移り、昭和33年まで居を構えていました。その後数多くの名作を残し、昭和44年11月21日に病気のため56才で亡くなりました。お墓は調布市の深大寺にあります。

 隣の妙久寺に句碑が建っています。

 昭和21年(1946年)1月、石田波郷は疎開先の埼玉県北埼玉郡樋遺川村(現・加須市)から妻子を伴って上京、葛西の吉田勲司宅に仮寓。3月10日、江東区北砂町1−805に転居した。

大霊山妙久寺


日蓮宗の寺院である。

白梅が見事に咲いていた。

波郷の句碑


はこべらや焦土の色の雀ども

 昭和20年(1945年)3月9日、波郷の妻安嬉子は修大を伴い埼玉県北埼玉郡樋遺川村(現・加須市)に疎開、同夜米空軍の大爆撃により北砂町の妻安嬉子の実家焼亡、安嬉子の母こう、妹静江、光子死去。

芋うるめあまりあらたに仏たち

      妻の母、妹二人、これらの「仏たち」
      がまざまざと思起され、食膳の芋のう
      るむ宵もあつた。死んだもの果して不
      幸なりや否や、それにしても「あまり
      あらたに」には違ひなかつた。

『波郷句自解』「波郷百句」

 昭和33年(1958年)3月28日、波郷は練馬区谷原町の新居に転居している。波郷45歳の時である。

句碑の裏に「昭和34年10月吉日鶴江東支部」と刻まれている。

昭和34年(1959年)11月11日、除幕式がおこなわれたそうだ。

現在、鶴江東句会が江東区立毛利小学校内で開かれている。

妙久寺の脇を越中島貨物線が走る。

 私は毎朝、小名木川駅の貨物の入換えや突放のひびきで目をさます。戦後砂町に移って11年間そうである。もっとも初めの4、5年は貨物の動きも今ほどではなかった。鉄路の堤にのびた土筆(つくし)を子供と摘んだこともある。

小名木川駅春の上潮曇るなり

『江東歳時記』(小名木川駅で)

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