「興福寺」 法相宗三大本山の一。藤原不比等が和銅三年(七一〇)厩坂寺(ウマヤザカデラ)をここに移したるに始まり、藤原氏の氏寺として、歴代の官寺なる東大寺と対峙して二大勢力の一となり、遂には堂塔の数も百宇を超ゆるに及べりといふ。中世以後には僧兵を蓄へて武威を張り、或は春日の神輿を擁して朝廷に強訴し、或は比叡山、多武峯等と相攻伐し、その間兵火に罹ることも屡なりしも、従つて近畿の最大勢力となり、嘉吉元年(一四四一)に記録せるこの寺の『官務牒疏』によれば、山城、大和、近江、摂津、伊賀の五国にたり、二百数十の社寺の上に統御の権を握りしが、享保二年(一七一七)金堂、西金堂、講堂、南円堂が罹災して伽藍の中枢を失ひ、明治に入りては諸制度一変のために全く衰弱に陥れり。
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