2015年青 森

碇ヶ関〜吉田松陰〜
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 平川市碇ヶ関の国道7号(羽州街道)沿いに道の駅いかりがせき「津軽関の庄」がある。


道の駅いかりがせき「津軽関の庄」の碇ヶ関の関所高麗門があった。


 この門は、桃山時代以降の城郭建築に現れた様式であり、一般には城郭外門として建てられている。

 碇ヶ関の関所は、御本陣を控えた関所であるために、地域一帯は城下町の様相を呈して作られている。弘前城から見れば出城と見られ、碇ヶ関構えといいうるのである。そのためにこの高麗門を建て、正面には平川を横たえ、番所大橋を渡って関所に入るようになっている第一番目の門である。

 様式は、角柱2本を親柱として背後に控柱を立て、腕木で出桁を受け、軒先を小さくした屋根をかけ、控柱とのつなぎの上に大屋根と直角に小屋根をかけ、扉を雨露から防ぐように作られている。扉も頑丈に作り、木割も太く造られた門である。

 文政元年(1818年)7月10日、松窓乙二は碇ヶ関を通り津軽へ。

蚊屋しらぬ蚊よ朝皃の花一つ


 嘉永5年(1852年)閏2月29日、吉田松陰は矢立峠を越え、碇ヶ関の温泉に入っている。

嶺を下り橋を渡りて關に入る。乃ち津輕の置く所、驛を碇關と曰ふ、温泉あり、浴す。於阿仁を經、亦温泉あり。


「於阿仁」は大鰐温泉である。

 明治40年(1907年)6月2日、河東碧梧桐は大鰐温泉から碇ヶ関に遊んだ。

 碇が関はその名のように、昔津軽藩の関所を設けられた処で、町外れがその跡であったという。秋田領へは二里ばかりしかない。温泉はいつ頃からあったか、附近に城跡らしいものが、二三箇所もあるが、誰の居城であったか、遠い昔のことは総て漠としてわからぬ。


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