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田原城は文明12年頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城し、以来70年にわたって栄えたが、今川義元によって攻略され落城した。その後、城主は交代し、慶長6年から戸田尊次が1万石で、寛文4年には1万2千石で三宅康勝が入城し、三宅氏の居城として栄え、明治維新を迎えた。 田原城は、かつて海が城の周囲に入り込み、入江を形成していたため、その状況が巴(ともえ)文に似ていることから、巴江(はこう)城とも呼ばれている。中世に築かれた城を利用したため、地形・規模などの制約を受けているが、藤田曲輪・本丸・二ノ丸・三ノ丸・出曲輪及び付属する腰曲輪の周囲を、堀によって区画するなど、さまざまな工夫を凝らし、小さいながらも近世の城郭にふさわしい構成を取り入れている。また空堀・土塁など随所に中世城館遺構を残す貴重な城である。
田原市教育委員会 |
| 寛政5年(1793年) | 9月16日、江戸の田原藩上屋敷で生まれる。 |
| 天保3年(1832年) | 5月、田原藩の年寄役末席(家老職)に就任。 |
| 天保10年(1839年) | 5月、北町奉行所に召喚。「蛮社の獄」である。 |
| 12月、在所蟄居。 |
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| 天保12年(1841年) | 10月11日、池ノ原宅で自刃。享年49歳。 |
