本栖湖をかこめる山は静かにて烏帽子が岳に富士おろし吹く いと深き水がとどむる影のごと静かなるかな本栖の山は 本栖の湖地にしたたりし大空の藍の匂ひのかんばしきかな 本栖村清水に代へて湖を汲むと云ふなり三十戸ほど
『瑠璃光』 |
與謝野寛(鐵幹)晶子夫妻が奥山鴻巣と三人で中央線大月駅から富士五湖に遊び精進ホテルに泊まって多くの歌を作ったのは大正12年(1923年)8月である。
野田宇太郎『文学散歩』(第14卷) |
昭和21年(1946年)8月30日、下部温泉「湯元ホテル」で詠まれた句のようである。 |
山山を船夫指させど身に沁むは精進の浜のくらき焼石 ほととぎす樹海の波につつまれてうらやはらかく鳴ける黄昏 湖の一ところをば赤くして精進の村に灯のつきにけり 精進村ともし灯つきぬ鶯にうみて夜に入ることを急ぐや
『瑠璃光』
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大正12年(1937年)10月29日、若山牧水は精進湖で「山田屋」に泊まっている。 |
長い昼食を終つてわたしはまた森の中の路を歩き出した。誰一人ひとに会はない。歩きつ休みつ、一時間あまりもたつた頃、森を出外れた。そして其処に今までのいづれよりも深く湛へた静かな湖があつた。精進湖である。客も無からうにモーターボートの渡舟が岸に待つてゐた。快い速さで湖を突つ切り、山の根つこの精進村に着いた。山田屋といふに泊る。
「木枯紀行」 |
昭和7年(1932年)10月、与謝野寛・晶子夫妻は富士の裾野に遊び、精進湖に1泊している。 |