富士吉田市大明見に柏木鉄雄邸がある。鉄雄氏は柏木白雨の三男である。 昭和20年(1945年)7月、次男次郎は多賀工専入学3日後、水戸艦砲射撃の犠牲となる。 昭和21年(1946年)8月31日、高浜虚子は星野立子と大明見の柏木白雨邸に泊まり、「この宿の九十の翁天高し」の句を贈った。「九十の翁」は白雨の祖父仁兵衛、鉄雄氏の曾祖父である。 |
八月三十一日。富士山麓明見村、柏木白雨宅。 椎茸の木を積み重ね水ほとり |
八月三十一日。明見村・柏木白雨宅。 なつかしきひそかな花とがんぴ見る 美しと見たる其処にも花がんぴ 呼ばれ立つ心残して花がんぴ |
昭和21年(1946年)9月1日、月江寺で「ホトトギス六百号記念山梨俳句大会」が開かれた。 昭和22年(1947年)、長男英一は東京工大在学中中央線浅川駅で列車事故のため亡くなった。 |
柿を食ひながら来る人柿の村 十一月二十四日 山梨明見町大明見、柏木白雨居泊り。句碑 除幕。
『六百五十句』 |
この句碑は富士吉田市明見町に柏木白雨氏邸の前庭にある。昭和二十一年九月一日、虚子翁はこの家に来泊された際、白雨氏の祖父仁兵衛翁は、当時九十一歳の高齢を以て、なお十五人家族の畑作りから薪つくりまで采配して居た。その姿を眺めて、この句を詠まれた。昭和二十三年十一月の建立。桂川から得た高さ二尺六寸、幅四尺、厚さ一尺五寸の自然石である。十一月二十四日、除幕式当日の作に、 三ツ峠越え来て落葉雨の句碑 虚子 というのがあった。柏木仁兵衛翁は九十四歳の長寿を全うして永眠された。 |
柏木白雨邸、裏山墓地 土に置く桔梗をさはに新帰逝
『愛日抄』 |
裏山の亡二児の墓前に虚子の追悼句「御仏の左右の弟子かも墓拝む」の句碑もあるそうだが、そちらは失礼した。 |