ここ象鼻ヶ岬(ぞうびがさき)は、国指定の天然記念物暖帯樹林が生い繁る峨嵋山を背景にして「周防天の橋立」ともいわれているところで、岬近くには大師堂があります。大師堂の他は、弘法大師が大同元年(806年)唐より帰朝の途次七日七夜の護摩供養を修し、自らの手で42才の尊容を刻んで安置したという、言い伝えのある霊場でもあります。寛政2年(1790年)には、多くの人々の寄進により大師堂までの道しるべとして、四国霊場の八十八ヶ所から勧請した大師尊像が安置されました。今も多くの人々の信仰を集めています。
また、この周辺は国立公園で、美しい自然と環境の恵まれた地で有り、弘法大師ゆかりの伝説をもつ史跡も数多く残されている。
光市観光協会 |
昭和8年(1933年)5月14日、種田山頭火は室積の俳友大前誠二の下宿を訪れた。16日、山頭火は置手紙をして大前の下宿を発つ。 |
まだ降つてゐる、残酒残肴を飲んで食べる、うまいうまい、そしてM氏のために悪筆を揮ふ。 朝酒は身心にしみわたる、酔うて別れる、誠二さんはすでに出勤、書置を残して、そして周東美人を連れて! 宿の奥さん、仕出屋の内儀さんの深切に厚くお礼を申上げる。
「行乞記 室積行乞」 |
明治13年(1880年)3月4日、松岡洋右は山口県熊毛郡室積浦230番屋敷(現:山口県光市)に生れる。 昭和8年(1933年)2月24日、国際連盟脱退。 昭和21年(1946年)6月27日、東大病院で逝去、66才。洗礼名「ヨゼフ」。 昭和53年(1978年)10月17日、「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀されていた。 |
ことしは 山口県光市が生んだ国際政治家 故松岡洋右氏の生誕百年にあたるが 同氏の事蹟を称え ここ ゆかりの地に生誕百年祈念碑を建立した。 松岡氏は光市室積の出身で 年若くしてアメリカに渡り苦学のすえ オレゴン州立大学を主席で卒業した。帰国後一時外務省に席を置いたが その後満鉄総裁として難局の大陸経営にあたり さらに主席全権として 満州問題に関する国際連盟の会議に使した。ついで外相として日独伊三国同盟 日ソ中立条約を締結する快挙をなしとげた。これは日本の発展と世界の平和を念願する同氏の信念であった。 至誠は必ず人を動かすと信じ、軍の仏印進駐には断固として反対し 太平洋戦争を未然に防止すべく満身の努力を傾け尽したが 志しと異なる結果となった。 失意の中、病に倒れたが 偉大な国際政治家としての足跡は不滅である。 ここに同氏の祈念碑を建立し その功績を末ながく伝えるものである。 |