2022年山 口

室積象鼻ヶ岬〜種田山頭火の句碑〜
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県道146号室積公園線(峨眉山通り)に室積象鼻ヶ岬八十八ヶ所霊場がある。


室積象鼻ヶ岬八十八ヶ所霊場

ここ象鼻ヶ岬(ぞうびがさき)は、国指定の天然記念物暖帯樹林が生い繁る峨嵋山を背景にして「周防天の橋立」ともいわれているところで、岬近くには大師堂があります。大師堂の他は、弘法大師が大同元年(806年)唐より帰朝の途次七日七夜の護摩供養を修し、自らの手で42才の尊容を刻んで安置したという、言い伝えのある霊場でもあります。寛政2年(1790年)には、多くの人々の寄進により大師堂までの道しるべとして、四国霊場の八十八ヶ所から勧請した大師尊像が安置されました。今も多くの人々の信仰を集めています。 また、この周辺は国立公園で、美しい自然と環境の恵まれた地で有り、弘法大師ゆかりの伝説をもつ史跡も数多く残されている。
光市観光協会

 昭和8年(1933年)5月14日、種田山頭火は室積の俳友大前誠二の下宿を訪れた。16日、山頭火は置手紙をして大前の下宿を発つ。

まだ降つてゐる、残酒残肴を飲んで食べる、うまいうまい、そしてM氏のために悪筆を揮ふ。

朝酒は身心にしみわたる、酔うて別れる、誠二さんはすでに出勤、書置を残して、そして周東美人を連れて!

宿の奥さん、仕出屋の内儀さんの深切に厚くお礼を申上げる。

「行乞記 室積行乞」

「周東美人」は岩国の地酒。

種田山頭火の句碑があった。


松風のみちがみちびいて大師堂

平成8年(1906年)10月、建立。

 明治13年(1880年)3月4日、松岡洋右は山口県熊毛郡室積浦230番屋敷(現:山口県光市)に生れる。

 昭和8年(1933年)2月24日、国際連盟脱退。

 昭和21年(1946年)6月27日、東大病院で逝去、66才。洗礼名「ヨゼフ」。

 昭和53年(1978年)10月17日、「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀されていた。

松岡洋右生誕百年祈念碑


至誠而不動者未之有也

昭和己卯晩夏國難益迫而憶松陰先生情切也

昭和55年(1980年)12月13日、建立。

「至誠而不動者」は孟子の言葉である。洋右書。「昭和己卯」は昭和14年。

松岡洋右生誕百年祈念碑建立にあたって

 ことしは 山口県光市が生んだ国際政治家 故松岡洋右氏の生誕百年にあたるが 同氏の事蹟を称え ここ ゆかりの地に生誕百年祈念碑を建立した。

 松岡氏は光市室積の出身で 年若くしてアメリカに渡り苦学のすえ オレゴン州立大学を主席で卒業した。帰国後一時外務省に席を置いたが その後満鉄総裁として難局の大陸経営にあたり さらに主席全権として 満州問題に関する国際連盟の会議に使した。ついで外相として日独伊三国同盟 日ソ中立条約を締結する快挙をなしとげた。これは日本の発展と世界の平和を念願する同氏の信念であった。

 至誠は必ず人を動かすと信じ、軍の仏印進駐には断固として反対し 太平洋戦争を未然に防止すべく満身の努力を傾け尽したが 志しと異なる結果となった。

 失意の中、病に倒れたが 偉大な国際政治家としての足跡は不滅である。

 ここに同氏の祈念碑を建立し その功績を末ながく伝えるものである。

意外なものを見た。

室積みたらい公園へ。

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