白たへににほへる梅の花ゆえに |
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あけゆく空もみどりなるらん |
高杉晋作や奇兵隊を支援した下関竹崎の勤王商人白石正一郎は、多くの和歌を残した歌人でもあった。 |
偉(おお)き人こゝに眠るか直土(ひたつち)に |
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散りてひそけし松の落葉は |
吉田松陰の松下村塾で高杉晋作と机を並べた山県有朋(狂介)は、高杉が病気のため身を退いたあとの奇兵隊を引き継ぎ、軍監として攘夷戦、さらに戊辰戦争を戦い、元勲として明治維新史にその勇名を刻みました。 日本陸軍の総帥、また第三・第九代内閣総理大臣を務めた軍人政治家山県有朋の一面は、歌を詠み庭園を愛した文人でもありました。維新後、生活基盤を失った盟友高杉の愛人おのう(梅処尼)に、山縣は自分が住んでいた無隣庵とその周辺の広大な里山をそっくり譲りました。これが東行庵のはじまりです。 昭和8年(1933年)山県有朋の遺徳を称える銅像が東行庵境内に建てられました。これは太平洋戦争の金属供出で影を消していましたが、平成27年(2015年)春、新しく青年志士山県狂介の凛々しい姿として復元が成りました。 |
大正10年(1921年)、下関市吉母に生まれ。本名・文男。下関中学(現・下関西高)、山口高商卒後、昭和20年(1945年)山口県立下関工業高校(現・下関工高)社会科教師として赴任、昭和57年(1982年)まで同校一筋の教諭。俳句を兼崎地橙孫、土居南国城に師事。著書に「清明といのち」句集に山帰来」など。 句は、昭和48年(1973年)、吉母春潮句会、吟行での作品。奇兵隊士の草莽崛起に心寄せた句を、戦後の混乱期、下関工高に学んだ教え子たちが選び、紛れもない母校の「青春の真実」として、里灯顕彰句碑を昭和56年(1981年)7月27日に建立した。 |
高杉晋作(号東行)は天保10年(1839年)二百石の長州藩士の長男として萩に生まれた。18歳にして生涯の師吉田松陰の松下村塾に入門したのを転機に希代の革命戦略家として頭角を現す。文久3年(1863年)長州藩が外国艦隊と砲火を交えるに及んで奇兵隊を組織自ら初代総督となる。以後各地に討幕戦を指揮し明治維新のさきがけとなったが、慶応3年(1867年)4月13日(命日は14日)下関において結核のためその雷電風雨の如き27歳8ヶ月の生涯を閉じた。 遺言によりここ奇兵隊本拠地吉田清水山に土葬される。 |
おくれてもおくれても又君たちに |
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誓ひしことをあに忘れめや |
奇兵隊を創設した高杉晋作が慶応元年(1865年)8月、下関・新地町に日本で最初の招魂社を創建したときに、亡き同志をしのんで詠んだ歌。 |
平成8年(1996年)2月に亡くなった司馬遼太郎が歴史紀行『街道を行く』の中で「長州は、武士と庶民が一丸となって維新を成し遂げた」と記している。 司馬遼太郎の文学碑は県内初、全国でも3番目。 台座は山口県の地形をイメージしている。 |
半生の事業志と違(たが)う 空しく愁情に客衣(かくい)を促さる 愧(はず)らくは蓬窓孤枕の上に死せんことを 夢魂独(ひと)り故園に向って飛ぶ 失意の高杉晋作が10年間の賜暇を得て、京都から帰国した文久3年(1863年)4月、周防室津港で詠んだ七言絶句から四字を採り、これに「春秋志」を次韻として、碑銘を「夢魂独り飛ぶ春秋の志」とされた。 それは、英傑の想いにかさねて、現代を生きるわれわれの夢魂を飛翔させ、実りある春秋としたい願いをこめたものである。ちなみに維新の原動力となった奇兵隊創設は、東行先生がこの詩を詠まれてから二ヵ月後のことである。 郷土に関わる数多くの人々を描いた作品のある古川薫氏は、とりわけ高杉晋作への想いを強く、東行先生没後140年記念事業としての文学碑建立を快諾された。 『漂泊者のアリア』で直木賞受賞。下関市長府に在住。 |