この塔は、嘉吉2年(1442年)に建立されたもので、室町時代中期におけるすぐれた建築の一つであるとともに大内氏隆盛時の文化を示す遺構として意義深いものである。高さは31.2メートルで桧皮葺独特の軽快さを見せており、軒の出は深くなっている。塔の身部は上層にゆくにつれて思い切って間をつめているので、塔の胴部が細く見えてすっきりした感じである。これに対して初重の丈が高く、柱が太く二重目には縁勾欄があるので安定感が強い。鎌倉時代から和様、禅宗様、大仏様建築様式が行われているが、この塔は、大体和様を主体としていて、わずか一部に禅宗様の手法が見られる。室町時代のものとしては、装飾の少ない雄健なものである。この塔は大内義弘の菩提をとむらうため、その弟の盛見がこの地にあった香積寺の境内に建立したものであるが、江戸時代の初めに香積寺は萩に移り、その跡に瑠璃光寺が移ってきた。その後、「瑠璃光寺五重塔」と呼ばれている。
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山口県の国宝建築は瑠璃光寺五重塔の他、下関市の功山寺仏殿、住吉神社本殿がある。
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若山牧水の歌碑があった。

はつ夏の山のなかなるふる寺の古塔のもとに立てる旅人
昭和39年(1964年)6月、山口市建立。
昭和11年(1936年)5月31日、吉井勇は山口市中を見物。
翌日小川五郎君の案内にて市中を見物。瑠璃光寺の塔最も強く眼底に残る。
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司馬遼太郎の文学碑があった。

(長州は、いい塔をもっている。)
と、惚れぼれするおもいであった。長州人の優しさというものは、山口に八街九陌をつくった大内弘世や、ザビエルを保護した義隆などの大内文化を知らねばわからないような気もする。
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大内弘世公之像

昭和55年(1980年)3月、市制施行50周年記念に建立。
大内弘世公は、中世西日本の守護大名として勢力をもっていた大内氏二十四代の当主である。室町幕府の重臣として、度々上京しているうち、京都の風情を好み、地形の似た山口盆地に、京都になぞらえて町造りをした。これが「西の京」といわれる山口の町の誕生である。公はよく幕府を助け、領国を治め、文学を愛し、社寺の建立保護に努め、まことに文武兼備の名将であった。康暦2年(1380年)に山口で歿した。
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文明12年(1480年)6月、宗祇は筑紫の旅の途中で山口を訪れた。
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程もなく博多の海も波おさまりて、岩国山いとゞ動きなき隠れ家となりぬれば、文明十二の年水無月の初め、周防国山口といふ所に下りぬ。
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貞亨2年(1685年)4月27日、大淀三千風は周防山口を訪れた。
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○同廿七日船木を立。周防山口極樂寺に一宿す。當所はさしも名高き大内義隆都をまなび給ひし。祇園清水いと古久(かみさび)て今にのこり。四神相應地。梵閣。八十箇寺。宮社六十基俗屋四千余宇。無双の繁所なり。
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保寧山瑠璃光寺

曹洞宗の寺である。
文明3年(1471年)、仁保に安養寺建立。
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明応元年(1492年)、瑠璃光寺と改称。
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元禄3年(1690年)、現在地に移転。
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