明治45年(1912年)、近木圭之介は森冨織太の三男として福井県に生まれる。 7歳の時、父の本家近木家の養子として長府に移る。 昭和8年(1933年)3月19日、近木圭之介は大山澄太と小郡にある山頭火の其中庵を訪問した。初対面である。その時、山頭火51歳。黎々火20歳。 |
すつかり春だ。 増(ママ)富黎々火さんが大山澄太さんと打合せてをいた通りに来庵、またお土産沢山、――味噌、塩昆布、蒲鉾。 大山さん自身出かけて、酒と酢と豆腐とを買うてくる、どちらがお客さんだか解らなくなつた。 樹明君もやつてくる、其中庵稀有の饗宴がはじまつた。
『其中日記(二)』 |
昭和8年(1933年)6月4日、山頭火は黎々火宅を訪れる。5日、長府の町を散策。 |
昨夜は興に乗じて焼酎を飲みすぎたので胃の工合はよくないけれど、ぐつすりと眠れたので気分は軽い。 行程六里、厚狭行乞。 山に陽が落ちてから黎々火居へ落ちつく、心からの歓迎をうけた、ありがたかつた。 近来にないうまい酒うまい飯であつた。 ずゐぶんたくさん水を飲んだ。 覚苑寺、功山寺、忌宮、等々のあたりをそゞろあるきする、青葉若葉、水色水声、あざやかでなつかしい。 心づくしの御馳走を遠慮なくよばれる、ひきとめられるのをふりきつてお暇した。 行乞米を下さいといつてお布施を下さる、写真をとつてもらふ、端書、巻煙草、電車切符を頂戴する、――何から何までありがたい。 黎々火居は家も人もみんなよかつた。
『行乞記 北九州行乞』 |
昭和8年(1933年)9月1日、山頭火は再び黎々火宅を訪れる。 |
ぶらりだらりと長府町へはいつて裏道を歩いてゐたら、ひよつこり黎々火君に出逢つた、偶然にしてはあまりに偶然すぎるが、訪ねてゆく途上で出逢ふたのはうれしい、さあ、ようこそと迎へられて、まず入浴、そして、つめたいうまい水を腹いつぱい飲むことは忘れなかつた。 かういふ家庭の雰囲気にひたると、家庭といふものがうらやましくなる。…… 心づくしのかずかずの御馳走になる。
『行乞記 大田から下関』 |
昭和45年(1970年)、黎々火は護国寺で行なわれた山頭火法要に参列。 |
音はしくれか |
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へうへうとして水を味ふ |
「へうへうとして水を味ふ」の出典は『草木塔』。「昭和二年三年、或は山陽道、或は山陰道、或は四国九州をあてもなくさまよふ。」とある中の3句目。 「音はしくれか」は昭和7年(1932年)10月21日、山口県小郡の其中庵で詠まれた句。 |
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、18番目・19番目の山頭火句碑である。 |
九州への小さな旅の往復時、必ず立寄ってくれた山頭火を偲ぶため玄関横に建てたものである。石材は――家を改築どき不用となった瓦葺門(この門を山頭火は幾度くぐったことか)を友人宅の石門と交換することとなり永年の山頭火句碑建立の願望が果された訳であった。新石材でなく古い石門を再利用したことは、いかにも山頭火に似つかわしいではないかといささか自惚れている次第。
『山頭火句碑集』 |
月は有明のありやなしかっぱの宿をでる | 井泉水 |
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散つた後も心に葉はちつてくる | 黎々火 |
建立日を「昭和五十一年十月木犀忌」とした理由は、十三回忌の山頭火祭に荻原井泉水が松山の一草庵を訪れ「一草庵草描」として残した句の中の一つに依る。すなわち― ・一草庵の一木の木犀忌と云いたし 井泉水 木犀の香が長府の小路にどこからともなく漂いはじめると木犀忌が来たナ、と思う。 黒い法衣に網代笠、右手に棕櫚竹のシュ(※手偏+「主」)杖、左手に鉄鉢の俳人山頭火は、木犀香る忌日忌日いずこの小路にひとりたたずむか――。 なお、山頭火句碑に並べ紅御影石の井戸ワク四枚を屏風形に組み、井泉水と私の句を刻んだ。昭和二十四年十月十七日師井泉水が、河豚を食べたいと吾が河童洞に一泊の記念としたものである。それぞれの句は―― ・月は有明のありやなしかっぱの宿をでる 井泉水 ・散つた後も心に葉はちつてくる
『山頭火句碑集』 |