2022年山 口

大歳神社〜七卿落ち〜
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下関市竹崎町の国道9号線沿いに大歳神社がある。

大鳥居


維新の史跡(大鳥居)

明治維新の原動力となった奇兵隊の果たした役割は周知の通りであるが、創設者高杉晋作を信奉して尊皇討幕の推進に全資金を投入しこれを援助した豪商志士白石正一郎の功績は計り知れないものがある。この白石正一郎は敬神の念厚く文久2年(1862年)、氏神大歳神社に大鳥居を奉納して攘夷必勝を祈念した。参道(石段)の下の鳥居がそれであるが、終始表に出ることなく陰の力に徹した正一郎の足跡を残す数少ない史跡である。

また京都における文久3年(1863年)8月18日の政変によって三条実美ら勤王の公卿7人が西下し、下関巡視の際には白石邸にも宿泊した。その七卿落ちの有様を画碑として境内に建立している。

白石正一郎(通称名)越智(源流…四国越智家)資興(忌み名)

忌み名である資興(すけおき・しこう)は、毛利家に興丸君(後の毛利元昭・毛利宗家二十九代当主)が誕生されたことにより資風(すけかぜ・しふう)と改めた。毎年7月下旬に正一郎を顕彰する資風祭を白石正一郎旧宅地前で執り行っている。

大歳神社の一二三坂


 当社は昭和15年(1940年)に関門鉄道トンネル工事の折、鉄道路線敷に接収され、現在地に遷座されました。当初階段は一二三段でした。(※1)

 この一二三(ひふみ)とは『一二三の祓い言葉』(※2)にちなみ厄を祓う意味が込められおり、『お祓いの一二三坂』として親しまれてきました。

 不慮の遷座ではありましたが、当社は現在も本州最西端を守護しており、一二三の階段と併せ二重の厄を祓う意味が込められていたと考えられます。

 平成10年(1998年)に下関市の『港の見える丘の径』事業の一環として階段の整備が行われ現在の115段に至っております。

 平成18年(2006)年には、下関市夜間景観整備事業第一号として日本を代表する照明デザイナー石井基子氏によりライトアップを施されました。

 平成29年(2017年)に大歳神社ご鎮座830年祭記念事業として、階段に人生の通過儀礼プレートを施しました。

 また、当社の御祭神である木花咲耶姫神は山の神(富士山)であることから、長い階段を登るというより、小山を登頂しお参りに来たと考えて頂ければ幸甚であります。

 参拝される皆様のご隆昌とご健勝に繋がりますよう、お祈り申し上げます。

※1、元の境内は下関駅西口高架下付近、文治2年(1186年)に鎮
   座。遷座とはお引越しの事。(伊勢)神宮の20年に1度行われ
   る式年遷宮が有名です。

※2、古事記の天の岩戸において、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞
   をしつつ、ひふみの祓詞を唱えたと言われています。47の清音
   で成り立っています。

   ひふみの祓詞…

    ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ

    そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ


大歳神社


御祭神 木花咲耶姫神 大歳神 御年神 若年神

由緒

寿永4年(1185年)、平家追討の任務を受けた源義経は、壇ノ浦の合戦に望んで武運の守護神と仰ぐ富士浅間の大神の御神助を請い、平家が布陣を整える彦島を望む有明山(JR下関駅東口付近)に小松を植え、篝火を焚き、2日2夜(7日7夜とも云われる)の斎戒沐浴をして戦捷祈願をこめた。

 その後、祈念を注いだ桑の弓矢をもって平知盛率いる平家軍に開戦の矢文を射込んだ。

 驚いた平家軍は急遽、壇ノ浦に軍船を進め一戦を挑んだが、待機していた源範頼の軍勢と義経軍との挟み撃ちに合い、敢え無く滅亡したと云う。

 翌年の文治2年(1186年)、4軒の漁民が義経の祈願の有様を畏敬して、神祠を祀ったことが大歳神社の起源とされる。

 爾来、武運長久の神としての御神威は光輝を益し、文久3年(1863年)、馬関攘夷戦に際しては、高杉晋作の唱導により奇兵隊が氏子・白石正一郎宅にて結成され、維新回天の大業に勇名を馳せた。その時の奇兵隊旗揚げの軍旗は大歳神社に奉納された。翌元治元年(1864年)折しも四国連合艦隊との交戦となったが、正一郎は攘夷成就を祈請して大鳥居を奉納した。(鳥居横詳細文有)その後下関の発展とともに昭和15年(1940年)関門鉄道トンネル工事の際、社地が鉄道線路敷地に接収され現在の高台に遷座されたが、御神威はいよいよ高く本州最西端の鎮護の神と仰がれている。

 殊に、下関において源氏と縁のあることから、古来より勝運の神として崇められ、現在は心願成就のお社としても広く知られている。

「七卿西下図」


七卿落ちの画碑の説明

 この画碑は三条実美卿を始め、七卿(七人のお公家さん)が、京都の妙法寺から蓑笠姿にて長州へ下向する様子を(画碑に)写刻したものであります。

 白石正一郎邸にて匿われた縁を持ちまして氏神の大歳神社の境内に大正4年(1915年)関門史談会が建立し、七卿の偉業を顕彰されました。

 嘉永6年(1853年)日本に来航したペリーは、圧倒的な軍事力を背景に、江戸幕府へ開国を要求。さらに、通商の開始を求められた井伊直弼が、朝廷の許可なく条約を結んだことにより、国内に動揺が広がりました。以後、公卿や大名だけでなく学者・浪士など、様々な身分の者たちが、開国・鎖国・攘夷・公武一和(朝廷と幕府の関係修復)などを訴え、行動を起こします。

 文久3年(1863年)8月、孝明天皇の意を受けた会津・薩摩藩は、過激な攘夷を主張した事を里由(※注1)に、在京諸藩と協力して三条実美卿ら公卿と長州藩を京都から退けました。一連の事件は、八月十八日の政変及び『七卿落ち』といわれています。

※注1、過激な攘夷を訴える諸藩士、浪人らが三条実美卿ら公卿を通じて、孝明天皇が攘夷祈願のために親征(大和行幸)し、攘夷の気運を盛り上げようとしました。しかし、孝明天皇は、軽率な親征に反対を示しています。

 長州藩においては、元治元年(1864年)は激動の年でした。四国連合艦隊との下関戦争の敗北に加え、禁門の変を起こして朝敵の汚名を蒙り、さらに幕府や諸藩で構成された征長軍が藩境にまで迫るなど、正に内憂外患だったのです。苦境に陥った長州藩内において、幕府への抵抗を声高に叫ぶ人々は、三条実美卿らを唯一の拠り所としたのでした。

 やがて、高杉晋作の功山寺決起をきっかけに長州藩の意見は統一され、幕府に抵抗していく方針に決定しました。さらに、慶応2年(1866年)には、長州藩が薩摩藩と同盟を締結(薩長同盟)し、第二次長州出兵(四境戦争)で勝利を得ます。

 翌年には、大政奉還、王政復古の大号令が出され、慶応4年(1868年)五箇条の御誓文と共に明治時代の幕開けとなりました。

 境内には、七卿落ちの画碑、明治維新の史跡、白石正一郎奉納の鳥居、さらに錦小路頼徳の病気平癒を祈願してお祀りされた八坂神社を有しています。それは、白石正一郎が氏子であったこともありますが、何より下関市において唯一源氏のご祭神を祀り、勝ち戦を祈願した歴史と由緒が大きいのではないでしょうか。本画碑を通じ幕末維新当時の先人の足跡に触れていただければ幸いです。

白石正一郎宅跡へ。

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