元応年間(1319−1321)流れ着いた木仏(開基仏)を安置するため、教法房浄信によって創建されました。慶長6年(1601年)木仏と寺号を本山より賜り長門地方で最も早く公認された浄土真宗寺院です。 文久3年(1863年)8月16日、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)を屯所としていた奇兵隊が、萩藩正規軍の先鋒隊宿所であった教法寺を襲い、先鋒隊士が斬り殺される事件が起きました。(教法寺事件)。この事件後、騒動の責任をとって宮城彦輔は切腹、奇兵隊も秋穂への転陣を余儀なくされます。さらに高杉晋作は奇兵隊總督を免じられました。また、翌年の四国連合艦隊下関砲撃事件(下関戦争)では、赤間関總奉行で萩藩士の内藤佐渡が教法寺辺りまで出陣するも、連合艦隊の砲撃に恐れをなして戦うことなく戦線を離脱しています。 |
文久3年(1863年)5月、関門海峡で始まった国際紛争・攘夷戦を機に、下関には奇兵隊を結成した高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、井上聞多(馨)ら志士たちが多く集まった。 ここ稲荷町には元禄時代からつづく最大の妓楼「大坂屋」があり、志士たちの憩いの場としてもにぎわった。出入りした志士のなかでも伊藤俊輔(博文)は、縁の深い人物で、初代内閣総理大臣となってからも大坂屋を訪れた。 のちの駐日英国公使アーネスト・サトウもやってくるなど、明治維新史と強い関わりのある史蹟である。東京第一ホテル下関は、その大坂屋の敷地の上に立てられている。
(文藝春秋刊『野山獄相聞抄』 作中「京屋」) |