「毛利侯のお船蔵」 というものが、徳川初期からこの三田尻港におかれており船手組の役人はみな三田尻に屋敷をもっていて、和船時代はたしかに「海の毛利家」というべき偉容があった。和船操縦術もおそらく諸藩にぬきんでていたであろう。なにしろ、戦国の瀬戸内水軍の末裔どもを吸収して江戸体制に入った藩なのである。
司馬遼太郎『街道をゆく』(長州路) |
萩往還は、江戸時代のはじめに萩城と三田尻(防府)の御茶屋を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。 行程は53Kmで、政治的に重要な道であったため、道幅4mの大道として位置づけられました。 道の途中には石畳が敷かれ、藩主一行の休憩所である御駕籠建場や藩の公館の御茶屋等が設けられました。現在、その一部は保存、あるいは復元されています。 萩往還は利用頻度も高く、山口県の歴史にとって大変意義のある道といえますが、中国山地を最短距離で越えるため険しい坂や峠が多く、道行く人たちにとっては苦労の多い旅であったと思われます。 ここ『三田尻御舟倉跡』は、海路を萩往還へとつなぐ、海からの玄関口です。かつてこの道を行き交った人々に思いをはせ、ゆっくりと歩を進めてください。
山口県教育委員会 防府市教育委員会 |
三田尻御舟倉は、当初は海に面して設置されていましたが、江戸時代中期以降、防府の南部で広く干拓が進められたなかで、安永5年(1776年)に御舟倉の南側から東側にかけての勝間開作により、御舟倉は陸地に囲まれる形となりました。明治以降に建物の解体や堀の埋め立てが進み、御舟倉の往時の姿をとどめるのは一部のみとなりましたが、周辺地域には御舟倉、また文久3年(1863)この地に設置された海軍局に由来する地名が現在も残っています。
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国指定史跡「萩往還」関連遺跡 |
関ヶ原の戦(1600年)後、周防・長門の二か国に封じ込められた毛利輝元は、参勤交代や海戦、平時の海運に備えた藩の水軍の本拠地である御舟倉を、現在の下松市に設けました。しかし、萩城との交通の便や地形などを考慮し、慶長16年(1611年)三田尻に移しました。城下町萩と瀬戸内海の港三田尻を結ぶ「萩往還」の終点である三田尻御茶屋(英雲荘)からおよそ500メートルの位置にあります。江戸時代中ごろまでの参勤交代はここから船出していたのです。 御舟倉には、藩主の御座船や軍船が常置されただけでなく、船の建造や修理ができる設備も整えていました。また、周辺には水軍の将校や船頭・船大工など関係者の住宅地の町割りが計画的になされ、三田尻は藩主出入りの表玄関にふさわしい軍港・商業港として発展していました。 しかし、元禄元年(1688年)以降、御舟倉周辺の開作(干拓)が次々に完成すると、次第に陸地に囲まれ、一本の水路が海に通じる唯一のものとなりました。 明治維新後、御舟倉は廃止となり、現在では大部分が埋め立てられ、通堀とこれに通じる水路の一部にその名残をとどめています。
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