大正元年12月有志相謀って乃木記念会を発足。追慕の念益々高揚し神社創建の儀が起り広く有志の協力を得て、大正8年12月竣工。昭和天皇裕仁親王殿下御来閲、各皇族の御参拝十余回に及ぶ。 |
昭和37年乃木将軍御夫妻御殉死五十年祭にあたり乃木静子刀自命の御神霊合祀、乃木将軍御夫妻銅像を建立し万民崇敬の象徴とした。 |
爾靈山嶮豈攀難 爾靈山嶮なれども豈に攀(よ)ぢ難(がた)からんや 男子功名期克艱 男子の功名克艱(こくかん)を期す 銕血覆山山形改 鐵血山を覆ひて山形改まる 萬人齊仰爾靈山 萬人齊しく仰ぐ爾靈山 |
一 旅順開城約成りて、 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ、水師営。 二 庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木、 弾丸あともいちじるく くずれ残れる民屋(みんおく)に 今ぞ相見る、二将軍。 三 乃木大将は おごそかに 御(み)めぐみ深き大君の 大みことのり伝うれば、 彼かしこみて謝しまつる。 四 昨日の敵は今日の友。 語ることばもうちとけて、 我はたたえつ、かの防備。 かれは称えつ、わが武勇。 五 かたち正して 言い出でぬ。 「此の方面の戦闘に 二子を失い給いつる 閣下の心如何にぞ」と。 六 「二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目」と。 大将答力あり。 七 両将昼食(ひるげ)共にして なおもつきせぬ物語。 「我に愛する良馬あり。 今日の記念に献ずべし。」 八「厚意謝するに余りあり。 軍のおきてに従いて 他日我が手に受領せば ながくいたわり養わん。」 九「さらば」と握手ねんごろに 別れて行くや右左。 砲音(つつおと)絶えし砲台に ひらめき立てり、日の御旗(みはた)。 |
日本唱歌保存愛唱会によって、昭和61年4月11日春季大祭に序幕献納。 |
乃木希典は、嘉永2年(1849年)11月、長府藩士乃木希次の子として、江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれたが、安政5年(1858年)、10歳のとき父とともに長府の地に帰り、16歳で萩に従学するまで、私塾集童場において学ぶなど、長府城下で過ごす。 現在保存されている乃木旧邸は大正3年(1914年)、乃木記念会がそのゆかりの地に、忠実に復元したもので、家屋の造りは、6畳と3畳の2間、押入、それに2坪の土間という極めて質素な生活をしのばせている。 また、調度品等も当時を再現したもので、風呂敷包が天井につりあげてあるなど、生活の工夫もみられて興味深い。 なお、6畳の間に相対して置かれている父、母、そして少年からなる3体の等身大木彫座像は、乃木大将の甥にあたり、明治から大正にかけて活躍した著名な彫刻家長谷川栄作の制作によるもので、乃木少年が、父親から訓話を受けている場面が、見事に表現されている。 |
転じて和布刈神社、壇の浦、満珠、干珠の島等等を遠望し長府に 上る。忌の宮参拝、乃木旧邸を見る。 聞きしよりもあまり小さき柿の家 塀外に二枚落ちたる柿紅葉 |