2022年山 口

室積みたらい公園〜碑巡り〜
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光市室積の御手洗湾沿いに室積みたらい公園がある。

 神功皇后が三韓侵攻の時、この地で手を洗われたという事から御手洗と呼ばれるようになったという伝説があるそうだ。

みたらい燈籠堂


 元禄15年(1702年)、室積浦象鼻ヶ岬に(現室積灯台位置)に同浦の百姓松村屋亀松(浦年寄)が、父次郎左衛門の遺志を継ぎ自費をもって御手洗州先(象鼻ヶ岬)に燈籠堂を建て、別に油代・人夫賃などの維持費として米40石(約6000kg)を寄付した。

 燈籠堂建設の目的は「港内の見入りよろしく、夜中にも廻船が出入りできるようにしたい」というもので、元禄ごろには室積港が諸国廻船の出入で賑わっていたことがうかがえる。

 我国で最初に設置された燈台は、慶長年間(1596〜1614)の能登国 (石川県) 羽咋(はくい) 郡福浦港である。室積の燈台は、24番目に設置されたものであるが、山口県内の灯台では最も古いものであった。なお、この燈籠堂は平成3年3月に復元されたものである。

光市観光協会

山頭火の句碑


わがまゝな旅の

 雨にぬれてゆく

平成7年(1995年)4月、光市建立。

山頭火と室積

大正から昭和初期にかけて活躍した自由律俳人種田山頭火(1882〜1940)は。佐波郡西佐波令村(現防府市)に生まれ。庵住のかたわら全国各地を遍歴する中で独自の境地を開き、多くの名吟を残した。

山頭火は昭和8年5月14日室積にあった女子師範校の教師で俳友の大前誠二の下宿を訪れて、折しも普賢まつりで賑わう町中や御手洗湾などの散策、夜は大前らと酒を酌み交わしながらの俳句談義で過し、16日迄滞在した。その時の感想といくつかの句が山頭火の「行乞記」に記されている。

句碑の「わがまゝな旅の雨にぬれてゆく」は、山頭火が下宿を発つ朝の置き手紙に残した句で、その文字を拡大したものである。

丸岡忠雄の詩碑


つばめが
今年もまた
柱時計の上に巣をこしらえた
時計はもとより
畳の上まで汚してしまうけど
どうしても
追い出す気にはなれない

旅を終えたつばめには
この古ぼけた時計の上も
かけがえのないふるさと

巣を受ける台もつくってやろう 少し位風が強い日でも
窓を少し開けておこう




いのちをみつめて
うたをこぼせ
なみだではない
うたをこぼすんだ
ひとみと

丸岡忠雄について

昭和4年(1929年)光市浅江に生まれる。浅江小学校から県立光中学校、熊本陸軍幼年学校に進み、終戦後国立宮崎高等農林学校で学ぶ。

18歳頃から詩作を始める。健康を害し療養生活を続けながら詩作に精進し、21歳で詩誌「駱駝」創刊同人となる。

27歳で終生の事業・印刷業を起こす。その傍ら詩業にも励み、「ト短調」など5編の詩集を出す。

部落問題解決にも心血を注ぎ、広く同和教育の重鎮として指導的役割を担い続けた。

資性温厚、心志清堅い、いつも生きとし生けるものを愛さずにはおられない誠実の人であった。

昭和60年(1985年)56歳で生誕の地に眠る。

知らなかった。

平成15年(2003年)5月10日、建立。

礒永秀雄の詩碑


海がわたしをつつむ時
空にあっては燃えさかる一つの星雲
地にあっては悲しみを吹き払う風
あなたとともに生きる水 また花びらを 実を 受けとめる土

わたしはひたす あなたの胸の谷 こころの小部屋を
乳と蜜と 海の花びら 潮の香りで
わたしはつつむ あなたがわたしを呼ぶ時
瞬時の玉をちりばめた崩れない青い門 海のいのちで

礒永秀雄について

真実を追究しつづけ、まやかしと闘いつづけ、昭和51年(1976年)7月27日、ここ光市において永眠した詩人にとって、海は生命の源泉であった。

大正10年(1921年)、仁川に生まれた礒永秀雄は、22歳のとき、学徒出陣で南方の島に送られる。1950年からは詩誌『駱駝』を主宰するが、その詩精神の底には、戦争の危機的状況の中で見つめた、人の生命の原点への深い想いと、ふたたびそれをふみにじろうとするものに対決する厳しい意志とが、一貫して流れている。

また、教師としての礒永秀雄から、直接、間接に学んだ多くの若者たちは、その学識や魅力的な人柄から、卒業後にも消えることのない、強い影響を受けた。

純粋な詩人の心は、愛する海につつまれて、永遠に生き続ける。

知らなかった。

平成13年(2001年)4月1日、建立。

「光ふるさと郷土館」へ。

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