下関市長府川端の県道246号長府前田線(旧山陽道)沿いに功山寺(HP)という寺がある。 |
嘉暦2年(1327年)、臨済宗の長福寺として創建。 |
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慶長7年(1602年)、曹洞宗の笑山寺として再興。 |
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慶安3年(1650年)、功山寺に改名。 |
天明2年(1782年)、北陸・奥羽行脚の途次、日光で詠まれた句。菊舎30歳の時である。 |
この句は江戸後期の女流俳人田上菊舎が奥羽行脚の道すがら日光山に詣で故里長府に在ます父母に思いを寄せた寒夜の句であり、その筆跡である。 菊舎は宝暦3年(1752年)豊浦郡田耕村在住の長府藩士田上由永の長女として生まれた。名は道と云い菊舎はその号である。16歳近隣の村田家に稼したが、24歳夫君利之助の病死にあい、当時長府に移っていた父母の許に復帰した。 28歳俳諧の修業を志し、得度し尼となって、独り長途の旅にたった。先ず美濃獅子門宗匠大野傘狂の門に入り、一字庵の号を受けた。その後北陸・奥羽を経て江戸に出で、東海・京阪・九州の各地に遊び、知名の俳人を訪ねて生涯句道を磨き、その足跡殆んど全国に亘り延べ数千里に及んだその間、書道・絵画・茶道・琴曲・和歌・漢詩などの良師に従って、その奥義を窮めた。晩年は概ね長府にあり、深く佛道に帰依し、信仰の句が多い。文政9年(1826年)8月23日、74歳で没した。 著書には生前自費をもって出版した『手折菊』4巻外数篇がある。 今この顕彰の建碑に当って、生地と由縁の村田家の庭石数基を受けて主石に配したことを追記する。 昭和48年11月14日 下関市長府観光協会 |
山口県の国宝建築は功山寺仏殿の他、下関市の住吉神社本殿、山口市の瑠璃光寺五重塔がある。 |
文久3年(1863年)8月の政変によって、尊皇攘夷派の七卿は、京都を追われ長州に落ちのびていたが、そのうち五卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌)は同年11月中旬よりすでに功山寺書院に潜居していた。高杉晋作はこの好機を捉え、同年12月15日の大雪が降り極めて寒い夜、80名余の同志を率い、書院に居た五卿の前で「長州男児の肝っ玉をお見せ申す」と宣告して、揺れ動く長州の藩論を討幕へと結束させる戦いを起こした。回天義と呼ばれる功山寺決起の成果は、激動する日本近代史の起爆剤となって、薩長同盟の成立と幕藩体制の終焉をもたらし、明治維新という新生日本の扉を開いたのである。
長府観光協会 |
文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち三条実美・東久世通禧等5名が滞在したそうだ。 元治元年(1864年)12月15日、高杉晋作は五卿を太宰府に移送することを知り長州藩俗論派打倒のために功山寺で挙兵した。 |
高杉晋作回天義挙銅像 |
嘉永6年(1853年)米艦4隻浦賀に来航して徳川300年鎖国の夢破れ 国論は支離滅裂 我長州藩もまたその帰結を知りません 国外では欧米諸国が競って全アジアを制圧し 最後の塁である我国に迫って来つつあります 時は元治元年(1864年)12月15日夜半 高杉先生は遂に意を決して四面の楚歌を排し この地この処に義挙の一鞭を奮い 藩内の俗論派を倒して藩論を尊皇倒幕に統一し 薩・長・土の盟約を結び 第二征長幕軍を長州藩の四境に迎え討って皆これを敗退させ 遂に内は王権を復古して明朗闊達な大和民族本然の姿に返し 外は四海を圧する明治維新(1864年)の基を作られました 明治維新発祥の地 ここ功山寺境内に この度回天義挙像の建設成り 高杉先生当時の姿そのままに只今眼前にあります この誇りを我等永久に語り伝え 言い伝えて 子々孫々教育の糧に致さんと切に願うものであります |
昭和11年(1936年)2月21日、高浜虚子は門司着。下関に渡り功山寺の梅を見る。 |
箱根丸が著くと多數の關門北九州方面の俳人諸氏が先生を訪問した。先生は船内にて御晝食の後、午後三時門司の大阪毎日新聞社西部總局を御訪問御挨拶の後、下關に渡られ、遊覧バスにて長府方面へ史蹟めぐりをし、功山寺の梅を見らる。 一行は、虚子先生、章子嬢、黙禅、楠窓、方舟、晋平、螢雪。
後藤萍子「門司港に於ける虚子先生」 |
功山寺にて 新樹の冷えに いますが如く 障子しまる |
七卿を匿まひ障子暑からむ
『不勝簪』 |