「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また剣名を巌流ともよぶ人間は、かくいう私であるが、……。」 吉川英治氏の小説『宮本武蔵』の一節である。 当地では古くから佐々木小次郎がここ錦帯橋畔において柳の枝が燕を打つのを見て 燕返しの剣法「巌流」を自得したと言伝えられている。 |
昭和43年(1968年)、山口県立岩国高等学校の移転に伴い公園になった。 |
お堀の水に臨んで矢倉のようなこの建物が錦雲閣である。 吉香神社境内の南隅にあたり、旧藩時代には3階建の南矢倉のあった所で、明治18年(1885年)居館跡が公園になったとき、この絵馬堂が建造された。 |
岩国城は、吉川家17代の広家公が慶長5年岩国に移封されてより建設が計画され、先ず最初に山麓に平生の居館を構え、ついで横山の要害を城と呼び、山麓の館を土居と称した。 岩国城は、慶長8年、二宮佐渡が鍬初めを行い、築城奉行に松岡安右ヱ門、祖式九右ヱ門、二宮兵介、吉田宗右ヱ門等を任用し、5年の歳月を要して慶長13年(1608年)に山頂の要害はことごとく完成し城藩制が定められた。 |
城山の尾根沿いに長さ180米、横に108米〜54米、石垣の高さ5.4米、天守閣は桃山風の南蛮造りと言われ、4層5階で本丸の北隅にそびえていた。この外に矢倉5棟、折り回し大門2門、埋門1門、井戸2堀があった。 横山側の前方を大手とし、御庄後方を搦手として錦川を隔てて北方に安芸境をにらんでいた。 元和元年(1615年)6月、徳川幕府の一国一城の制により取り壊しにあった。その後、城跡は石垣の一部を残し、荒涼たること360年にして昭和36年3月、復元工事に着手し、昭和37年3月に竣工したものである。 |
周防岩國山の麓を過るとて 半帋すく川上清しなく雲雀
『初蝉』(風国編) |