鶴 |
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お宮の池の |
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丹頂の鶴よ。 |
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おまへが見れば、 |
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世界ぢゆのものは、 |
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何もかも、網の目が |
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ついてゐよう。 |
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あんなに晴れたお空にも |
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ちひさな私のお顔にも。 |
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お宮の池の |
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丹頂の鶴が、 |
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網のなかで靜かに |
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羽をうつときに。 |
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一山むかうを |
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お汽車が行つた。 |
金子みすゞは、亡くなる前日の昭和5年(1930年)3月9日、亀山八幡宮参道そばの、この場所にあった三好写真館で、最後の写真を撮りました。そのときの心情は、想像にあまりあります。 みすゞの詩には、亀山八幡宮にかかわるものも多く、親しみ深い地にあった写真館を選んでのことでしょうか。・・・ |
文明12年(1480年)9月、宗祇が筑紫の旅の途中で亀山八幡宮に参拝した時に詠まれた句。 |
帰るさ、暮かゝる程に亀山の八幡へ詣づ。苔の道石の橋を登りて見れば、数多(あまた)の人家海面(づら)に連なり、大小の客船山陰に浮かべり。御社みやびやかにして、常磐木高う茂りあひ、夕露白くうち靡く様、昔かぐや姫の願けん蓬莱の玉の枝に通ひぬべし、又爰にても神主発句を乞。否びがたくて、 秋遠し亀の上なる峰の松 |
大正3年(1914年)7月14日、六連報一周年祝賀記念碑として六連団青年会建立。 |
夏越まつり |
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ぽつかりと |
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ふうせん、 |
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瓦斯の灯が映るよ。 |
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影燈籠の |
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人どほり、 |
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氷屋の聲が泌みるよ。 |
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しらじらと |
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天の川、 |
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夏越祭の夜更けよ。 |
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辻を曲れば |
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ふうせん、 |
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星ぞらに暗いよ。 |
貞観元年(859年)、京の都の守護のため宇佐神宮から石清水八幡宮に勧請される途中、この島の麓に停泊され。その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。暫らく祭祀し奉り路を進むべし」とのご神託があり、供の勅使は国主に命じ仮殿を造営させてお祀りし、再び京に向かわれたと伝えられているそうだ。 |
弘化3年(1846年)、中野兵蔵忠昭の長男として東南部町に生れる。 関門日々新聞社に務め、同新聞に社説などを書き、健筆を振るうかたわら句作に励む。 |
花のいのちは |
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みじかくて |
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苦しきことのみ |
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多かりき |
母は他国者と一緒になつたと云ふので鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは下関と云ふ処であつた。私が生まれたのはその下関の町である |
江戸末期、開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国にさきがけ外敵防禦策をとり、長州藩主毛利元周公は亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。 文久3年(1863年)5月11日午前2時久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船攻撃合図の砲弾が亀山砲台より発射され、米仏蘭三国相手に6回にわたる馬関攘夷戦の火ぶたがきられた。 同年6月1日、藩主は亀山八幡宮に夷敵降伏を祈願した。敵弾は楼門をかすめただけで社殿守兵とも損傷なく、時の人はこれ神意なりと矢よけ八幡宮と称えた。 翌年8月の4ヶ国連合艦隊襲来により攘夷戦は幕を閉じ、開国、尊皇討幕を経て明治維新へと急速に時が流れた。 亀山砲台はまさに近代日本の幕開けを告げる第一弾を発射したのである。
下関市 |
幕末のころ北前船の寄港地として海陸物産が集積し西の浪華として栄えていた下関の街を、明治維新の志士たちが繁く往来していました。 慶応元年(1865年)の初夏、刺客に追われた伊藤博文公が亀山八幡宮の境内で、茶屋のお茶子だった木田梅子に助けられたのが二人の出会いで、その1年後に夫婦になりました。 伊藤公は明治新政府を樹立し、初代内閣総理大臣として日本の近代化と発展に身命をなげうち、明治42年(1909年)凶弾に倒れました。 明治の元勲と称えられる伊藤公と、公を支えた梅子夫人が結ばれたゆかりの場所です。 “国のため光をそえてゆきましし 君とし思へど悲しかりけり“(梅子) 夫人は大正13年(1924年)に77才で亡くなりました。
芳梅会 |
翌三日。同地俳句会。「三日会」と名づく。会者門司の無何有、 衣沙桜、下関の杏沖、枯木、伸堂、指月城、潮東、飛雨、紫峯、 皐鶏の諸君。この日はじめて河豚料理に接す。大雪。 壇の浦を見にもゆかずに河豚をくふ |
昭和9年(1934年)、関門ふく交友会は「波のりふくの像」を建立。 昭和19年(1944年)、金属供出により取り払われた。 |
大正3年(1914年)5月、うに甚本舗創業。 平成27年(2015年)11月17日、除幕式。 |