脚気もおかげでずゐぶんよくなりました。イモシヨウチユウの功徳かもしれません。 酔うてこほろぎと寝ていたよ 野宿して、といふ前書が必要かもしれませんね。
昭和5年10月10日、木村緑平宛 |
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、98番目の山頭火句碑である。 |
「句碑通り」は防府山頭火研究会によって設定された呼び名で、防府駅前の山頭火銅像を出発点として、八王子通り、生誕地、今市、山口町、本橋町護国寺に通じる道に「道しるべ」として、平成元年度中に句碑建立が計画されている第一基目の句碑である。 この句碑の特色は、昔から街道の「道しるべ」として石灯籠が建てられ、夜は灯明が灯されたものに似し、句碑の頭部に明かりが灯されるように、円形の穴があけられている。
『山頭火句碑集』 |
昭和5年(1930年)10月8日、榎原(現:宮崎県日南市南郷町榎原)で詠まれた句。 |
耳に口よせて首がうなづく | 江良碧松(田布施) |
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貯水池へ行く道とわかれて暮れて行くに萩 | 久保白船(平生) |
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雨ふるふるさとははだしであるく | 種田山頭火(防府) |
昭和7年(1932年)9月4日、其中庵の土地と家屋とを検分した折に詠まれた句。 |
てふてふうらからおもてへひらひら | 種田山頭火 |
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水鳥群るゝ石山の大津の烟 | 河東碧梧桐 |
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はるさめの石のしつくする | 荻原井泉水 |
山頭火の第二句集「草木塔」(昭和八年十一月二十八日発行)を正山昏迷子から寄贈を受けた。 山頭火は、七冊の句集を出版しているが、その都度句集を携えて、俳友を訪ねては買って貰ったという。各句集の前ページに一枚分の空間があり、そこに自選の句を筆で書きながら渡しており、この「草木塔」には、 ・てふてふうらからおもてへひらひら の句が書かれており、拡大し「井桁」に刻み句碑とした。当寺三基目の句碑である。 山頭火の母フサは井戸に入水自殺、母親の位牌を生涯身につけ、業を背負い放浪した。
『山頭火句碑集』 |
昭和7年(1932年)11月3日の句である。 昭和8年(1938年)、『層雲』(2月号)に発表。 |
妹の町田シヅさんや、夫人のサキノさんもよくお参りに来ておられ、昭和二十九年に戎ケ森に句碑が建立された際、その寄付金の残金で昭和三十一年に立派な山頭火の墓が作られました。 しかし市営墓地の中で場所が解りにくく昭和五十八年に息子健さんの了解を得て、母フサさんの墓とともに当寺の境内に移しました。現住職が境内に既に三基の句碑を建立しており、この度は私、隠居が建立したものです。
『山頭火句碑集』 |
種田山頭火展(主催毎日新聞社)に出品されていた自筆短冊を、在郷の俳人正山昏迷子(本名民行)から寄贈を受けた。 ・涸れきつた川をわたる 山頭火 この句は、句集「鉢の子」の三十六句目に自選記載されており、流浪化した山頭火が一人、徒歩禅に具し、行乞の途中、自然のいとなみの流れでの葛藤を描写したものであろう。
『山頭火句碑集』 |
松山での晩年の山頭火を献身的に世話をした高橋一洵の長男正治氏から、「防府山頭火研究会」に寄贈のあった掛軸を、生誕百年事業として句碑にしたものである。 松山の郷土史家 故鶴村松一氏が、先年松山図書館で山頭火展を開催し、防府山頭火研究会会員が訪れた際に、高橋宅(どんぐり庵)に案内され、正治氏から「山頭火に関係の深い松山市と防府市の架け橋となるように」と直筆の掛軸一幅を譲り受けた。 日記によれば、この掛軸は和十五年十月八日、没する三日前書かれたものであり、大きい字としては最後のものと思われる。
『山頭火句碑集』 |
漂泊の俳人と呼ばれる「種田山頭火(本名:正一)」は、明治15年(1882年)に主の長男として防府市八王子に生まれました。大正14年(1925年)に44歳で出家し、熊本県植木町「味取観音堂」の堂主になりましたが、飄然と行乞流転の全国行脚へ旅立ち、7年間という長い漂泊の間、行く先々で数多くの俳句を作りました。 昭和7年(1932年)には小郡町(山口市)に「其中庵」を結びましたが、さらに山口市湯田、愛媛県松山市と移り住み、昭和15年(1940年)10月11日に松山市「一草庵」で59歳の生涯を閉じました。念願の”ころり往生”であったと言われます。 |
護国寺門前の「摩尼山護国禪寺」標柱の笠石の上に山頭火の句「風の中おのれを責めつゝ歩く」が刻まれているそうだ。 |
昭和六十三年一月、日本テレビ「ぶらり日本、名作の旅」の番組で「自由律俳人・種田山頭火…ふるさとの旅・山口」の収録の際、境内の句碑を撮り終え「この他に、遊び心でこんなものもありますよ」と話したところ、この番組の案内人、竹中直人が標柱の上に鏡を置き、下から見る姿が録画され全国に放映された。 その時に「これは隠し句碑ですね」と言われ、そのまゝの名称で呼んでいる。
『山頭火句碑集』 |