家を持たない秋がふかうなるばかり 行乞流転のはかなさであり独善孤調のわびしさである。私はあてもなく果もなくさまよひあるいてゐたが、人つひに孤ならず、欲しがつてゐた寝床はめぐまれた。 昭和七年九月二十日、私は故郷のほとりに私の其中庵を見つけて、そこに移り住むことが出来たのである。 曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ |
この句碑は山頭火の没後10年にあたる昭和25年、大山澄太、伊東敬治、国森樹明など当時の友人等によって其中庵跡にたてられた。 其中庵に残された大理石の寝牛の置物にちなんで、栄山公園の谷間から形の似た自然石を選び出した。そして、山頭火の師である荻原井泉水によって「春風の鉢の子一つ」の句が選ばれ、仮名書きで刻まれた。 平成4年3月、其中庵の復元に伴い、現在地に移設された。 |
何処へ行く。東の方へ行かう。何処まで行く。其中庵のあるところまで……。山頭火は其中庵をたずね歩いて本州へ。近郷の友人が労をとり小郡に結庵がきまる。昭和七年九月、廃墟を修理して入居、其中庵主となる。とき五十一歳。それから足かけ七年。経文形の句集を発刊し、井泉水も招き、友人に恵まれて安住する。だが、本来の奇行が重なり山頭火自身も、世話をする友人もつかれ果てた。おりからも庵も崩れようとする。昭和十三年十一月、山頭火は追われるように湯田へと去る。山頭火の死後十年、かつての友人は山頭火を忘れがたく、其中庵あとに句碑建立を思いたつ。牛の寝た姿を思わせる自然石を近くの栄山公園の谷間で発見し、一同は満足した。句は井泉水が選び「春風の鉢の子一つ」を、かな書きして送ってきたものを碑文とする。 ・牛のようにねころんで眠るか 澄太
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会) |
木村緑平は其中庵跡の山頭火句碑除幕式に出席。 ほんにあたゝかく石がねころんでいた
『雀のことば』 |
其中庵のそばにあるこの井戸は、雨乞山からの水脈にあたり、深くはないが清い水が常に湧いていた。山頭火は、庵を構える場所の条件の一つに、水の良いところをあげていたが、其中庵の周辺の水は、遠方から茶席用にくみにくるほど味のよい水だったという。 雨の翌日などは濁り、隣りからもらい水をしていたというが、日々の山頭火の生活を支える水はこの井戸から得られた。 やつと戻つてきてうちの水音
(『其中日記』昭和9年4月29日)
朝月あかるい水で米とぐ
(『其中日記』昭和10年9月13日)
いま汲んできた水にもう柿落葉
(『其中日記』昭和10年10月4日) |
山頭火が好んだ言葉に、法華経の普門品第二十五にある「其中一人作是提言(ごちゅういちにんさくぜしょうげん)」という一節があります。 意味は災難や苦痛に遭ったとき、又は、苦痛に苛まれた時に、其の中の一人が「南無観世音菩薩」と唱えると、観世音菩薩は直ちに救いの手を差し伸べられて、皆を救われ、悩みから解き放たれるという事で、山頭火は結庵する時には庵名をその一節の中の「其中」にすると決めていました。 「其中庵」の語源は、この「其中一人」を自分に置きかえて、その一人が住む庵ということで「其中庵」となったのです。
山口市教育委員会 |
昭和8年(1933年)3月19日、近木圭之介は大山澄太と其中庵を訪問した。 昭和8年(1933年)11月14日、大山澄太は荻原井泉水を其中庵へ案内した。 |
此のみち蜂の子手にしての野菊であらうを 道で、これが校長さんのお宅の柿の木 なるほど其中庵の茶の花で咲いてゐる これだけで茶は足りるといふ茶の木の花 笠は掛けるところにかかり茶の花 柿一つ空にあづけてあつた取つてくれる |
其中庵は、自由律俳人、種田山頭火が、昭和7年9月から昭和13年10月まで暮らした庵である。句作と行乞の旅に生きながらも安住の地を探していた山頭火は、小郡に住む俳友、国森樹明、伊東敬治らのすすめによってこの地に庵を結んで、多くの俳友と交流を深めた。 山頭火は、近郊を行乞しながら、この其中庵で、『三八九』(さんぱく)第四、五、六集、句集『草木塔』、『山行水行』、『雑草風景』、『柿の葉』などを発行し、最も充実した文学生活を過ごしたが、庵の老朽化に耐えず、山口市に居を移した。 現在の其中庵は、平成4年3月に当時の建物を復元したものである。 |