下関(唐戸ターミナル)から「がんりう」トライアングルフリーパスで巌流島へ。 |
巌流鳥は、慶長17年(1612年)4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地として広く知られていますが、実は坂本龍馬の逸話も残されています。 慶応3年(1867年)春、下関(本陣伊藤邸)に世帯を構えた坂本龍馬とその妻お龍。ある夜、巌流島にこっそりと渡り、花火を打ち上げたと、後年、お龍が語っています。 どこで花火を上げたかは皆様の想像にお任せいたします。 |
白い雲のわいている空に、小次郎の面影が見える。 この後も、絶えず忠禰の眼に浮かんで消えることのないであろう小次郎の生きている面影であった。 |
慶長17年(1612年)4月13日。 船の形に似てていることから「舟島」と呼ばれる彦島沖に浮かぶ小島で、武蔵・小次郎が雌雄を決した。小次郎の物干し竿に対すべく武蔵は行きの船上で櫂を削る。仕合開始が午前8時にも関わらず陽が高く昇りきったころ武蔵は舟島へ。 「武蔵!遅参とは何事か。臆したか!。」 というや物干し竿を抜き放ち鞘は波間へ。 それを見た武蔵はにやりと笑いこう叫んだ。「小次郎破れたり!。」 |
宮本武蔵と佐々木小次郎が慶長17年(1612年)4月13日に雌雄を決した巌流島。この地から見渡す関門海峡は、右に門司の街並み、左に下関の街並みが見渡せるだけでなく、正面奥には本州と九州を結ぶ関門橋も望める。実は大変贅沢なビュースポットです。海峡の最狭部は「早鞆の背戸」と呼ばれる火の山のふもとで、距離は約670m。水深は約13m。ここを1日に大小約600隻もの船が行き交います。源平最後の決戦として知られる「壇の浦の合戦」の舞台でもあり、また明治維新の引き金となった攘夷戦や、四国連合艦隊砲撃事件(下関戦争)の地としても知られています。海峡が見守ってきた数々の歴史に思いを馳せながら、関門海峡の雄大な景色を存分にお楽しみください!
感動維新、山口県 |
大正10年(1921年)11月2日、斎藤茂吉は洋行の途中で門司に着き、巌流島を訪れている。 |
巖流島、下關萬歳樓、山陽ホテルに泊る しづかにいにしへ人をしたふ心もて冬の港を渡りけるかな(巖流島三首) わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ はるかなる旅路のひまのひと時をここの小島(をじま)におりたちにけり |
この島に |
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二人降り立ち |
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闘ひし |
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むかしの男 |
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恋ほしかるかな |
本名古川香代子・1936年山口市生れ。コスモス短歌会所属・歌誌「香臈人」主宰。現代歌人協会会員・日本文藝家協会会員。 |
平成14年(2002年)12月、小次郎像建立。 平成15年(2003年)4月、武蔵像建立。 |
平成30年(2018年)12月20日・21日に、将棋の最高位棋戦である竜王戦(第31期)七番勝負の最終第7局が下関市の春帆楼で開催されました。【竜王戦主催=読売新聞社、日本将棋連盟】 対局の前日に羽生善治竜王(当時)と広瀬章人八段(当時)に決闘の聖地である、ここ「巌流島」にお越しいただきました。 お二人の巌流島上陸を記念して、お二人の手形及び揮毫をブロンズ製の銘板にし、設置したものです。第31期竜王戦第7局は、平成最後の竜王戦で、第6局までに両者3勝3敗で両王手のタイに持ち込まれて、勝った方がタイトルを手にする歴史に残る大一番となりました。 永世七冠の偉業を成し遂げた羽生竜王は、通算99期目のタイトルを積み上げ、この竜王戦を防衛すれば、前人未到の「通算100タイトル」の偉業を達成する、まさに負けられない対局でした。対する挑戦者の広瀬八段は、23歳で王位戦を制した実力者であり、竜王戦決勝トーナメントではベテラン勢を抑えて、初の竜王戦挑戦権を手にしました。対局の決着は両者一進一退の白熱した戦いの末、広瀬八段が持ち前の粘りの将棋で絶対王者を苦しめ、見事9人目となる「竜王の座」を手に入れました。 |
令和元年(2019年)12月7日、第32期竜王戦で豊島将之名人が広瀬章人竜王に4勝1敗とし、「竜王・名人」となった。 令和3年(2021年)11月19日、第34期竜王戦で藤井聡太三冠が4勝0敗で豊島将之竜王を制し、史上最年少の四冠となった。 |