創建 寛弘3年(1006年)と伝えられている。 開基 性空上人 寛弘4年3月13日入滅 本尊 普賢菩薩像 開帳は50年毎 宗派 臨済宗、妙心寺派 称号 峨嵋山 開山 大林玄宥 |
縁起 播州書写山円教寺の住職である性空上人は、長年、普賢菩薩を拝したいと願っておられた。ある夜夢のお告げにより、周防室積の地に錫を留めるに至り、当時の古老に種々の昔の話を聞かれた。そして漁師の手によって沖合の海中より出現の霊像を拝され、此れを普賢山上大多和羅山に庵を結び安置された。後年現在の場所に普賢寺御堂が建立され、本尊として安置されている。 現在の普賢寺は江戸時代初期に改築された。また本尊の安置してある普賢菩薩堂は大正6年5月に改築され、平成5年4月に大修理された。 創建当時は天台宗であったが、後に臨済宗となり現在に至る。 江戸時代全期及び明治初年の版籍奉還までは毛利公の祈願所とされ、お手普請寺として寺格は高かった。 なお、開祖性空上人の入寂の日をとって定めたという毎年5月13日、14、15日の3日間の普賢祭には、盛大な農具市や露店市がたち、古くから普賢市として広く知られている。 |
寛政10年(1798年)の建立といわれ、雄大かつ怪奇な約6m余りの木刻の仁王像が立ち、楼上には十六羅漢像が安置されている。
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性空上人は、姓は橘氏で、性空はその諱である。平安時代 (784〜1185) 中期の僧侶で、歌人でもあった。播磨の国(兵庫県)の書写山円教寺の開山である。延喜10年(910年)京都に生まれ10歳にして既に法華経を誦し、天慶8年(945年)36歳のとき比叡山で剃髪して僧侶となり天台宗を修めた。のち、日向の国(宮崎県)に行って霧島で庵居を営み、さらに筑前の国(福岡県)の脊振山に登って修行し、康保3年(966年)四方遊歴の途に上り、書写山に到って円教寺を創建した。 晩年、播磨の国で通賓山弥勒寺を創したが、終焉の地となり、寛弘4年(1007年)に没した。享年98歳であった。 故事によると、性空上人が仏の導きによって、この室積の地で、普賢菩薩に出会った。そして寛弘4年80歳で没し、この地に葬られたという。長い歳月とともに墓誌が風化したので、萩藩主毛利吉就が、その性空上人の事蹟を偲んで、貞享3年(1686年)12月墓石とともにこの石碑を建立した。 なお、石碑の銘文は、萩藩明倫館学頭、山田原欽の撰によるものである。
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治承年間(1177〜1180)京都の鹿ヶ谷事件(平家討伐の密議発覚)に連座した平康頼は、僧俊寛と共に鹿児島県の鬼界ヶ島に流されることとなり、瀬戸内海を船で西下する途中、時化にあって室積の海に泊まり、当時普賢菩薩堂の北100メートルの所にあった潮松庵に活動和尚を訪ねててい髪し、戒を受けて名を性照と改め、一首の和歌をとどめた ついにかく そむきはてけむ 世の中を とくすてざりし ことぞくやしき 康頼は後年、許されて京に上り、東山の小寺でさびしく余生を送った。
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曇、とうとう雨になつた、半月ぶりの雨だらう、室積の人々には、せつかくの最後の書入日が駄目になつて気の毒だが、天を怨む訳もない。 私はこゝへきてゐてよかつた、安心して今日が暮らせる! 普賢様へ詣でる、女子師範校を通りぬけて大師堂へ詣でる。 皷ヶ浦はおだやかに千鳥が啼いてゐた。 学校はひつそりと風景をそなへてゐた。 えにしだの花がしづかだ、月草がふさはしい。 買物客が右徃左徃してゐる、農具や植木や瀬戸物が多い、合羽、竹籠がよく売れる、私はたゞ見て歩いた、買ふ金もなく買ふ気もない。 明るい雨だ、私の心が明るいから。
「行乞記 室積行乞」 |
寒山自画自讃 在許六家蔵 庭はきて雪をわするゝはゝきかな 翁
『篇突』 |
『諸国翁墳記』に「三物塚周防室積長寺ニ在 寸呂庵一源建 古池や蛙飛こむ水の音」とある。 |