2022年山 口

三田尻御茶屋〜萩往還〜
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 防府市お茶屋町の県道184号三田尻港徳地線沿いに三田尻御茶屋(英雲荘)がある。

歴史の道 萩往還

 萩往還は、江戸時代のはじめに萩唐樋と三田尻(防府市)を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。

 長さは12里(約53Km)で、政治的に重要な道であったため、道幅2間(約4m)の大道として位置づけられました。また道中には一里塚や御茶屋、駕籠建場などが整備されました。

 三田尻は萩藩にとって、藩の公館である御茶屋や水軍の本拠地御舟倉(おふなぐら)などを有する重要な地でしたが、なかでも萩往還の終着点である三田尻御茶屋は藩主の休憩、重要な客の応接に使われ、歴史上有名な人々も多く滞在しました。

 蔽往還は中国山脈を最短距離で越える行程のため途中にはけわしい坂や峠が多く、通行には苦労が多かったと思われます。山陰と山陽をつなぐ道として長きにわたり、あらゆる人々が様々な目的のために利用した、山口県の歴史上大変意義のある道といえます。

 かつてこの道を行き交った人々に思いをはせながら、ゆっくりと歩を進めましよう。

 
文化庁   防府市

本 門


観覧料は310円。

 国指定史跡 萩往還関連遺跡

三田尻御茶屋旧構内英雲荘

 三田尻御茶屋は、承応3年(1654)二代萩藩主毛利綱広によって建設された藩の公館で、藩主の参勤交代や領内巡視の際、あるいは公式賓客の旅館にあてられたものです。

 現在まで数度の改修が行われ、規模や間取りは様々な変遷をたどっていますが、県内に残る御茶屋として唯一、区画の明瞭なものです。

 幕末の文久3年(1863)8月には、京都の政変の難を逃れた三条実美七卿が相次いで御茶屋に入られ、多くの勤王の志士を交え国事が談じられました。

 昭和14年(1939)に毛利家より防府市に寄贈を受け、三田尻塩田をはじめ産業の振興に尽力し、藩の財政再建に勤めた七代藩主重就(しげたか)の法名にちなんで「英雲荘」と命名されています。

防府市教育委員会

玄 関


萩往還関連遺跡
三田尻御茶屋旧構内英雲荘

三田尻御茶屋は、承応3年(1654年)、2代萩藩主毛利綱広によって設置された萩藩の公館で、藩主の参勤交代や領内巡視の際、あるいは公式賓客の旅館にあてられたものです。

7代藩主重就(しげたか)による安永5年(1776年)の大改修、13代藩主敬親による嘉永4年(1851年)の大改修のほか数度の改修が行われており、規模や間取りは様々な変還をたどっていますが、県内に遺る御茶屋として唯一、区画の明瞭なものである。幕末の文久3年(1863年)8月には、京都の政変の難を逃れた三条実美ら七卿が相次いで御茶屋に入り、多くの勤王の志士を交え国事が談じられました。

昭和14年(1939年)、御茶屋は防府市に寄贈され、重就の法名にちなんで「英雲荘」と命名されています。

玄関に入る。


玄関棟

 三田尻御茶屋の玄関と本門は、江戸時代から明治時代にかけては、常に萩往還に面するように南向きに造られていましたが、大正6年(1917年)、玄関のある建物を南北ふたつにわける工事が行われた際、玄関、本門ともに東向きに変更されました。

 玄関棟は来客を迎える場であるとともに、各部屋は職員や来客の宿泊に使用されていました。

奥座敷へ。


奥座敷棟

 明治2年(1869年)に御茶屋は廃止され、建物の多くは売却、解体されましたが、三田尻御茶屋は地元からの嘆願により存続し、翌年には毛利興丸(のちの元昭)が保養の為に滞在する地と定められました。

 明治31年(1898年)三田尻邸は毛利家の山口県における邸宅となり、それに対応して建てられたと考えられるのが奥座敷棟です。棟札には「明治参拾壱年九月拾三日」「棟梁藤井唯雄」の文字が記されています。

 奥座敷棟は玄関から一番奥にあり、毛利家当主と家族が居住する私的空間として、落ち着いた生活が送れるように配慮されています。また、ふすまや引手金具、照明器具の意匠には、他の部屋にはない華やかさがみられます。元昭は大正5年(1916年)に多々良に毛利邸が完成し移り住むまでは、三田尻邸を生活の拠点としました。

奥座敷




2階へ。


大観楼棟

 この2階からはかつて南側に海が見えたといわれています。「大観楼」の名は、中国北宋の政治家・文人范仲淹の『岳陽樓記』から、瀬戸内海を中国の有名な湖、洞庭湖に比して名付けられた。

 嘉永4年(1851年)、第13代藩主敬親は重就の死後規模が縮小された御茶屋の大改修を行いました。現在の大観楼棟は、この時を復元年代としています。

 文久3年(1863年)、政変で京都を追われた三条実美ら七人の公卿は萩藩に身を寄せ、三田尻御茶屋に入りました。彼らは約2ヶ月間滞在し、敬親や嗣子の元徳、高杉晋作らが七卿に会っています。また各地から多くの志士が御茶屋の一角に設けられた「招賢閣」に集まりました。

 なお大観楼棟の屋根は文献や絵図、屋根の構造から明治7年(1874年)瓦葺になる以前は檜皮葺だったことが明らかとなり、保存修理工事で2階と1階南側の屋根を檜皮葺に復元しています。

2階の窓


庭園を見下ろす。


 文久3年(1863年)9月19、中岡慎太郎は三田尻の招賢閣に入る。21日、七卿に謁す。三条実美の使者として三田尻を出、土佐へ密かに侵入する。

水琴窟


三田尻御茶屋の水琴窟

 檜皮葺の大観楼は江戸時代中頃(230年程前)まで遡る建築で、御茶屋敷地の中心施設です。

 その大観楼の前にある手洗い施設(鉢前)で水琴窟が発見されました。江戸時代の水琴窟で、使われた形がよく残る貴重なものです。

 毛利重就公が隠居地として造営した「三田尻御殿」(安永期)の時代につくられたと考えられます。

庭 園


大観楼棟


花月楼


 花月楼は、川上不白(江戸千家の祖1719〜1807)が師とともに制定した茶の湯の稽古法である七事式の「花月」を催すことができる茶室です。八畳間を主体に、四畳の上段や床の間、棚、付書院を備えるなど、武家の邸宅にみられる対面、接客の場としての書院の特徴を持っています。

 萩藩7代藩主毛利重就は、毎月3回、4のつく日に花月楼で茶会を開催するなど茶道に熱心で、不白流の師から図面を入手し、花月楼を建設しました。

 ここに現存する花月楼は、天明6年(1786年)市内の国分寺に建てられ、明治21年(1888年)移築されたものであることが、花月楼に残る棟札や国分寺での発掘調査でわかっています。

 一方、安永5年(1776年)三田尻御茶屋に建てられた花月楼は、重就公の死後家臣の竹田休和に与えられ、現在は松陰神社(萩市)の境内に移築されています。(山口県指定有形文化財)。

住吉神社へ。

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