茂吉はこの菩提寺宝泉寺の住職佐原窿応を尊敬し、その幼少期は大きい感化を受けました。 宝泉寺本堂へ向って左側に慈母を思う茂吉の歌碑が建ち、さらに左奥には佐原窿応の墓に並んで、茂吉が昭和12年55歳の時に書いた墓碑銘の「茂吉之墓」裏面に「赤光院仁譽遊阿暁寂清居士」の法名が刻まれ、後には生前自ら植えたアララギの木の枝が茂る下に、昭和28年2月25日の没後、ここに分骨されております。 |
近代短歌会の代表的歌人齋藤茂吉は、明治15年5月14日右隣の守谷家三男として生まれ、明治29年上京、齋藤家へ寄寓(のちに養子となる)するまでの間、この地の人々より絵、漢字や書などを習い文学的影響を受けながらすごしました。
上 山 市 (財)齋藤茂吉記念館 |
窿應上人 昭和六年八月十日曉天窿應上人近江蓮華寺に遷化したまふ。 御年六十九にいましき 信濃路にわがこもれりしあかつきや窿應上人の息たえたまふ 番場なる蓮華寺に鳴くこほろぎのこゑをし待たず逝きましにけり
『石泉』 |
茂吉が弟直吉(四郎兵ェ)に宛てた昭和9年8月12日の書簡に「僕の戒名を考えたが一字不満足ゆゑ、金瓶の和尚に三とほりばかり考えてもらってくれ……」以後も書簡の往復を繰り返し「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」の戒名がつくられた。 茂吉が亡くなる19年前のことである。 墓字についは昭和12年2月4日の日記に「午後に〔茂吉之墓〕を書き……」とあり、戒名をつくった3年後に書いたことになる。「墓石」は鈴木太四郎石工によって刻まれ、疎開先となった妹なをの嫁ぎ先、斎藤十右ェ門家に、菰で覆い預けていた。 「茂吉之墓」が建立された日は不明であったが、墓の工事中の写真をみせてもらう機会があった。 写真には、茂吉の妹なをと弟直吉(四郎兵ェ)が写っており、二人の間に、なをの孫(当時3歳)と、季節の花も写っていることから、昭和27年5月末から6月にかけて建立されたものと推測される。 茂吉が亡くなる8ヵ月前のことである。 納骨は翌昭和28年5月24日に分骨埋葬された。 |
白萩は寶泉寺の庭に咲きみだれ餓鬼にほどこすけふはやも過ぐ
『小園』 |
昭和20年(1945年)、妹なをの嫁ぎ先齋藤十右衛門方に疎開していた時の歌である。 |
昭和28年(1952年)6月22日、水原秋桜子は宝泉寺に齋藤茂吉の墓を訪れている。 |
夜更けて蔵王村なる宝泉寺に到 り、斎藤茂吉先生の墓に詣づ 大人(うし)の墓故山の梅雨の月とあり
『帰心』 |