河村瑞賢により西廻り航路が開発された寛文12年(1672年)から、出羽の国の幕府米を、酒田港から江戸に回漕するために活躍したのが千石船である。江戸時代、日本海沿岸の廻航船を北前船又は弁才船と呼んだが、千石船は文字通り、米を千石(150トン)積めるという意味で、荒波に耐える為ドングリ型となっている。当時の酒田港には、横帆一枚、十数人の乗組員で、西廻り航路800海里の荒波を往来した千石船などが、毎日数多く入港してにぎわいをきわめた。この船の大きさは原型のおよそ2分の1であるが、現存する模型では、国内最大のものである。 |
「古今和歌集」東歌に読み人知らずとして収載されており、最上川が文学に現れた最初である。碑の文字は古今和歌集最古の写本「元永本」による。 |
最上川のぼれば下るいなふねのいなにはあらずしばしばかりぞ 此歌は出雲の國にある川なり。殊の外にはやき河にて四五日ばかりにのぼるなる川をくだれば、唯ひと時に下る。さればのぼりざまにはかしらをふりてのぼりがたければ、いなふねとは申すにや。稲つみたるふねをいふぞなど申す人もあるにや。 |
酒田みなとに錨を入れて長い船路の宿とる船よ |
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町の子供にお国を問われ国は遠いとよこ向く人よ |
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米は積み込む鉢巻すがた錨重たや帆網は澁や |
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海の彼方に消えゆく白帆港にやつぎの船がくる |
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時雨音羽集より |
大石田に疎開中の茂吉が、昭和22年(1947年)4月1日酒田に来遊。山王ホテルに2泊す。その時の即詠揮毫。茂吉全集歌集補遺所収。 |
その紀行文「はて知らずの記」明治26年(1893年)8月9日来酒して翌朝には吹浦に出発しているので、その時の作と思われる。『寒山落木 巻二』に収録。 |
元禄2年(1689年)の夏、芭蕉を宿した酒田の医師淵庵、俳号不玉。元禄6年、春の作。『不玉独吟集』「秋の夜」に所収。 |
道々茶屋に憩ふて茶を乞ふ。茶も湯も無しといふ。風俗の質素なること知るべし。歩む事五里再び最上川を渡り、限りなき蘆原の中道辿りて酒田に達す。名物は婦女の肌理細かなる處にありといふ。夜散歩して市街を見る。紅燈緑酒客を招くの家數十戸檐をならぶ。毬燈(きうとう)高く見ゆる處にしたひ行けば翠松館といふ。松林の間にいくつとなくさゝやかなる小屋を掛けて納涼の處とす。
はて知らずの記より |
日和山とて小高き所あり、神明の宮あり。目下に最上川を見、あなたに砂山清し。(中略) 九日、雨少しく降りて晴る。山王の社へ寄る。日和山の続きなり。鳥居を入り小高し。楼門を入り、小き石橋を渡る。社大なり。午末の間に向ふ。神楽殿、絵馬殿有り。下りて町へ出で、又、日和山を見まほしく、帰りて望む。南に青く小き山、丸く見ゆ。祈山と号す。弁慶が祈り出だしたりと伝ふ。
「北行日記」より |
江戸中期の尊王論者、上野国細谷村に生れる。蒲生君平・林子平とともに「寛政の三奇人」「寛政の三奇人」といわれる。寛政2年(1790年)6月、江戸を発し各地を廻って同年8月8日、酒田に来遊し、蕨岡から鳥海登山を試みている。 途中「祈山」とあるのは飯森山のことである。 |