この灯台は、木造六角洋式灯台で明治28年(1895)10月20日に最上川左岸河口に竣工した。棟梁は佐藤泰太郎といわれている。 その後対岸に移され、昭和33年(1958年)高砂に近代灯台が完成するとともに、町内会連合会の熱意によりこの地へ移築保存された。 この灯台の光源は、当初石油ランプであったが、大正8年(1919年)アセチレンガス明暗紅光に改良され、さらに大正14年(1925年)電化された。 |
酒田市教育委員会
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酒田市には今から1100年前の平安時代・出羽の国府がおかれ現在の山形秋田両県の政治、経済、文化の中心であったと推定される。室町時代、すでに酒田港には36人衆と称する豪商たちが海船を諸国に走らせ、早くから京都文化を受け入れていた。とくに寛文12年(1672年)河村瑞賢が幕命により、西廻り航路を開発してから日本海有数の港として繁栄した。 日本海に沈む夕陽、秀峰鳥海山、日本三大急流の最上川、景勝を誇る酒田には、芭蕉をはじめ多くの文人墨客が足をとどめ、すぐれた文芸作品を残している。 酒田市では市制50周年記念事業の一つとして、日和山公園を整備するに当り、来遊文人の文学碑を建立し、「文学の散歩道」をつくり、往時を偲び後世に伝えようとするものである。 昭和59年10月
酒田市 |
あふみや玉志亭にして |
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納涼の佳興に瓜を |
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もてなして発句を |
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こふて曰 句なきものは喰 |
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事あたはしと戯れけれは |
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初真桑四にや断ん輪に切ん | はせを |
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初瓜やかふり廻しをおもひ出つ | ソ良 |
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三人の中に翁や初真桑 | 不玉 |
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興にめてゝこゝろもとなし瓜の味 | 玉志 |
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元禄二年晩夏末 |
芭蕉が酒田在住の元禄2年(1689年)6月23日、市内のあふみやに招かれて、即興の発句会を催した時の作で、芭蕉が懐紙に残しており、本間美術館に保存されている。 |
峠を雨に越えて 湯の田に |
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一杯を傾け 吹浦より藤崎を経て |
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酒田に入りぬ(中略) |
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福浦より酒田に至る |
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六里ばかりの間は |
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いづれも皆海風荒く 砂舞ひて |
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人の行き悩むところなりがし |
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佐藤藤蔵 服部外右エ門 曽根原六蔵 |
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本間宗善(註光丘) 堀善蔵等の |
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人々の松を植え林を造りしが |
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ために 今の如くなるに |
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至れりといふ |
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十九日 |
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酒田を立ちて最上川を渡る |
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茫々たる盧萩人をも車をも |
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埋めんとす |
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幸田露伴『遊行雑記』 |
東京の人。明治文学に巨大な足跡を残している露伴は、明治25年(1892年)7月、土崎港から汽船で酒田に向かったが、嵐のため上陸を断念した。その後明治30年10月18日、友人の大橋音羽と同道して、酒田に来遊している。『遊行雑記』はその時の紀行文である。 |
毛見の衆の舟さす下せ最上川 |
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新米の坂田ははやしもがみ河 |
蕪村著『新花摘』に収められた句。寛保2年(1742年)秋、奥州旅行の際、酒田を通っているので、その時の作と思われる。坂田は酒田のこと。「早し」、「新米の積み出しの早さと、最上川の流れの早さの両方にかけられている。碑の文字は天保版『蕪村句集』による。 |
D斎藤茂吉の歌碑、E野口雨情の歌碑、F若山牧水の歌碑、H常世田長翠の句碑、J松尾芭蕉の句碑、K松尾芭蕉像、L松尾芭蕉の句碑は前回見たので省略。 |
飛島の風情に 富めるは われこれを 耳すること久し(中略) |
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我は 車上遥かに 其島の狭長なる翆色を望みつつ |
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頻りにさまざまなる 空想に耽りぬ(中略) |
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われは車夫より この島の趣味ある物語を聞きつつ |
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海上十数里を隔てたらんと覚しきその小さき島を幾度となく |
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打見やりぬ(中略) |
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酒田にやどりし夜は月明かにして積水千里転た旅情の寂寞た |
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るに堪えず 則ち歩して日和山に登り遥かに過ぎ来し方を顧 |
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るに 金波閃々として山翆微茫 宛然夢中の景に似たり |
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田山花袋、「羽後の海岸」より |
群馬県館林に生まれ、明治文学に大きな足跡を残した自然主義作家。明治36年(1903年)の夏、秋田から人力車に乗って羽後の海岸を南下し、酒田に1泊、翌日最上川沿いにさかのぼって行った。「羽後の海岸」はその時の紀行文である。 |
河村瑞賢翁は元和4年(1618年)伊勢に生まれ、すぐれた独創力と行動によって江戸屈指の豪商となった。寛文12年(1672年)幕府の命により、出羽の幕府米を酒田港から江戸に回漕する西回り航路を開発し、わが国の米穀・紅花などの流通と海運の向上に大きく貢献した。 これにより酒田港の名声は全国に高まり、日本海有数の良港として繁栄する基礎が築かれたのである。 |