たとえば私はいまでも、羽黒山伏が吹き鳴らすほら貝の旋律を記憶している。口に出せばブーオーオーと正確に出てくる。神秘的で少しものかなしげで、また威圧的でもある旋律である。 私が子供のころ、彼らはそのほら貝を吹き、兜布、結袈裟の山伏装束をつけ、金剛杖をつき、高足駄をはいて、村にやって来た。そして家家に羽黒山のおふだを配って回った。
中央文庫『周平独言』 |
月山、羽黒山、湯殿山を総称して出羽三山という。推古元年(593年)第三十二代崇峻天皇の皇子蜂子皇子開山である。この山は元来自然崇拝山岳信仰の古神道から発したもので明治維新までは神仏習合の山として栄え信仰区域も当時東33ヶ国総鎮護として広く朝野の尊崇を集めた。今日にあっても行の山浄めの山開運出世の山として信仰が篤く年間を通しての参拝者は180万人に及んでいる。 |
慶安(1648〜)の前後13年の歳月を掛け、天宥別当が一の坂下の大直日神社から八幡神社までの約1.2Kに石段を築いた。その費用は参詣者や信者の寄進と参内の規則を破った者の罪の代償による。 |
随神門から羽黒山頂までの1.7Kの参道の両側に立ち並ぶスギ並木で、右側に284本、左側に301本の総数585本。推定樹齢300年から500年を超える老杉で、慶長初期から寛永(1596〜1613)にかけて第48代宥源・第49代宥俊・第50代秀宥の3代に亘る別当が10数年の歳月をかけて植林したもの。 |
宝塔山瀧水寺の本堂で、承平・天慶年中(931〜940)平将門建立と伝える。その後いく度も修復され、慶長13年(1608年)の最上義光による大修造が最も近いものである。現在の搭はその建築様式から文中年間(1372〜74)と見られている。 |
五十路の夏にわけのほる |
|||||||
羽黒の峰の梅雨雲や |
|||||||
また見んことのあるやなしと |
|||||||
ふり返りゆく山つゝじ |
昭和31年(1956年)6月5日、高浜虚子は「千五百級の石段」を駕籠で登った。 |
それから更に車を驅ると庄内平野にさしかゝり、車は羽黒山麓の手向村といふのに著いた。こゝに社務所があつて小憩。少し脚を痛めてゐた年尾等は自動車で別の道をとる事になつたが、杞陽、柏翠、その他山形から来た東郊等の人々はこれから、千五百級の石段を登ることになつた。私にも是非石段を登れとの事で駕が用意してあつた。眞砂子と二人駕に乘つた。 |
駕二挺守らせたまへほとゝぎす | 虚子 |
石段の兩側には何百年、或は千年ともいふ杉の大木が連なつてゐた。幾多の事變にも伐採をまぬかれて、よく今日迄保存されて來たものと思ふ。日光、高野山、箱根等に較べてずつと整つた立派な並木であつた。 |
蜂子皇子の御陵に参って、花蔵院の奥座敷に休む。北谷を眼下にして、濃き薄き紅葉の松交り彩れるのを瞰る。右に蜿蜒たる山の峽に、最上川の水音も聞えるように見えるのは清川辺であるという。左に三郡の平野が開けて、酒田はあの辺りと指ざす大河の河口も著しい。羽黒の眺望この寺を押すというのは空言ではない。重い雲が板のように垂れて、鳥海の半腹以上を覆たのは、この眺望を四分見劣りせしめたという。目の前に美しい羽色をした山鳩が梢をあさっておる。帛を裂くような鳥の声が、頭の上を過ぐる。 谷深し松に紅葉を紅葉を畳みけり |