この墓所の正面には、豊臣秀吉公とその母公、秀吉の弟である大納言秀長と婦人など豊臣一族の墓があります。 織田信長に続き高野攻めを行った豊臣秀吉は、高野山の興山応其(おうご)上人の説得により、高野攻めを取りやめ、以後応其上人の言葉に耳を傾け、高野山を庇護するとともに復興興隆につとめられました。 |
浅野幸長は紀伊和歌山37万6,000石に移封、その跡を継いだ幸長の弟浅野長晟は安芸広島藩42万6,000石の領主となる。播磨赤穂藩は分家。 |
山鳥の鳴くを聞きて 山鳥のほろほろと鳴く聲きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ |
ほろほろと。鳴は山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。おもひしたへる。いにしへの。良辯のかの。ふるうたに。かよふ心の。十あまり。なゝつの文字を。石に今。きざミてこゝにたつかたミ。紀の高野なる法の月。雪にさらして。すゑの世も。くちぬためしを。この国に。この道したふ。泝風てふ。人のまことを。かきぞとゞむる。
雪中菴蓼太 |
昭和39年(1964年)9月、富安風生は高野山奥の院で芭蕉の句碑を見ている。 |
奥の院みち 二三片散らしがきして槇落葉 芭蕉句碑 「ちちはは」に時雨詣や妻とわが
『喜寿以後 補遺』 |
脇参道より参道に入ってしばらく進むと、左側に芭蕉の句碑が立っている。自然石。 父母のしきりにこひし雉子の声 「芳野紀行」の芭蕉は、吉野から高野に来て、この句を作った。山中に雉子の啼く声を聞いて、亡き父を想い、亡き母を想い、逢いたくてならなかった。雉子の声を聞いて父母を想ったのは、行基菩薩の「やまどりのほろほろと鳴く声きけば父かとぞおもふ母かとぞおもふ」が契機になったのだ。 句碑の字は、大雅の書。石の全面にはびこり、その彫りは大きく浅い。 私は大雅の書が好きである。殊に行書が好きである。私は大雅の「行書千字文」を座右に置き、こころ貧しきときはそれを見て、恍惚となる。かたらず、やわらかからざるその行書に。 そんな私だから、大雅の書いた芭蕉のこの句碑を事の外珍重するのだ。 建立は安永四年。
『句碑をたずねて』(紀州路) |
昭和59年(1984年)5月20日、弘法大師御入定壱千年後遠忌奉修記念に建立。 |
高野山真言宗管長第四百六世金剛峯寺座主 |
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大僧正森寛紹和尚白象と号す |
みなみより音たてて來し疾きあめ大門外の砂をながせり くにぐにの城にこもりし現身(うつせみ)も高野の山に墓をならぶる 紀伊のくに高野の山に一日ゐて封建の代の墓どころ見よ
『ともしび』 |