2017年和歌山

高野山〜奥の院参道〜
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高野山の奥の院参道を行く。

右手に与謝野晶子の歌碑があった。


柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君

昭和25年(1950年)5月29日、與謝野晶子顕彰会建立。

昭和32年(1957年)8月、山口誓子は天狼第一回の鍛錬會で高野山に登った。

   眞別處

高野より雲加はりて鰯雲

『方位』

参道の左手に山口誓子の句碑があった。


夕焼けて西の十萬億土透く

『晩刻』に収録の句。

昭和36年(1961年)6月、金剛峰寺俳句会建立。

9番目の誓子句碑である。

山口誓子は自分の句碑を見ている。

 西の天、真紅に夕焼け、一切空。遙かに遙かに十万億土が見える。透いてありありと見える。自分の句だが、高野山にはもってこいの句だ。建てるとすれば、大門の前が最も然る可きであるが、そこにはすでに木国の句碑が立っているから、ずっと退いて脇参道に西を向いて立つことになったのである。そこも西に展けている。

 はじめ白象師が建碑のことを云われ、句を求められたとき、私は

   高野より雲加はりて鰯雲

という句を提出した。その句は採用されなかった。「鰯雲」は「雲」ではあるが、「鰯」は魚扁の生臭い字であるという理由で。

 結局、私が昭和二十一年、伊勢で作った十万億土の句が採用された。私のこの句は、ゆかりの地のゆかりの句とは云えぬが、知らぬひとは欺かれる。


花菱アチャコの句碑


笑われて浮世をおくる顔にで来

御供所


昭和5年(1930年)7月13日、高浜虚子は高野山に遊ぶ。

這入りたる虻にふくるる花擬宝珠

炎天の空美しや高野山

      昭和五年七月十三日 旭川、鍋平朝臣等と高野山に遊ぶ。


御供所の前に高浜虚子の句碑があった。


炎天の空美しや高野山

昭和26年(1951年)6月10日、金剛峰寺俳句会建立。

 昭和二年の作。同二十六年六月、この句碑が高野山金剛峯寺境内に建てられた。高さ六尺の角碑で、彫も深く、どっしりとしたものである。(高野山森白象氏報)


昭和27年(1952年)5月25日、星野立子は虚子の句碑を見ている。

 ゆうべ堺の辻本さんから電話で帰途に福助足袋の工場
へお立寄りすることが約束されたのであつた。初めての
高野山であるから案内されるまゝに奥の院へもゆき、父
の句碑も見地蔵院も訪ね、普賢院では池内の伯父の法要
も願ひ、大門の方へも行つて見た。

 早寝の父の静かになつていまつた後を句会。

  追々と減りゆく人数夜の秋


昭和35年(1960年)、山口誓子は虚子の句碑を見ている。

 玉川を渡って奥の院に到り着けば、右へ折れたところに虚子の句碑が立っている。御影石の背の高い角柱碑である。

   炎天の空美しや高野山

 昭和五年の作。真夏の高野山に来て見ると、炎天の空がある。高山の炎天の空は微塵のけがれもなく、その美しさは極まっている。それを「炎天の空美しや」と詠嘆したのだ。その詠嘆は直ちに、読む者を動かす。

 「高野山」がただ高山だからではない。法(のり)の山だからである。

 高野山を詠ってこれ以上の句はない。今後も出ることはあるまい。

 建立は昭和二十六年。石の割合に字が小さい。


 昭和44年(1969年)11月11日、星野立子は再び虚子の句碑を見ている。

 十一月十一日 お山の寒さに驚く 午前中を坊の奥様の御案内で
奥の院へ

炎天の空美しや高野山   虚子

 右の句碑に再会。どうも句碑の位置が前と違っているように思う。


御廟橋の先は撮影禁止。

奥の院参道


 延宝2年(1674年)8月5日、西山宗因は奥の院の御廟を参拝している。

五日に、入道して御廟をおがみ奉りて、亡親ならびに六親万霊に水を手向、香をひねりて、西方浄土の願後仏出世の暁をいのりて、

入月や爰にとゞまる高野山
   宗因

「高野山詣記」

 昭和5年(1930年)8月4日から8日に亙り、高野山の清浄心院で第6回アララギ安居会を開いた。

   高野山

      八月四日より八日に亙り、紀州高野山清淨心院に於て第六回
      安居會を開く

ふりさけて峠を見ればうつせみは低きに據りて山を超えにき

ひとときに雨すぎしかば赭くなりて高野の山に水おちたぎつ

紀の川の流かくろふころほひに槇立つ山に雲ぞうごける

高野山あかつきがたの鉾杉に狭霧は立ちぬ秋といはぬに

『たかはら』

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