眞別處 高野より雲加はりて鰯雲
『方位』 |
西の天、真紅に夕焼け、一切空。遙かに遙かに十万億土が見える。透いてありありと見える。自分の句だが、高野山にはもってこいの句だ。建てるとすれば、大門の前が最も然る可きであるが、そこにはすでに木国の句碑が立っているから、ずっと退いて脇参道に西を向いて立つことになったのである。そこも西に展けている。 はじめ白象師が建碑のことを云われ、句を求められたとき、私は 高野より雲加はりて鰯雲 という句を提出した。その句は採用されなかった。「鰯雲」は「雲」ではあるが、「鰯」は魚扁の生臭い字であるという理由で。 結局、私が昭和二十一年、伊勢で作った十万億土の句が採用された。私のこの句は、ゆかりの地のゆかりの句とは云えぬが、知らぬひとは欺かれる。
『句碑をたずねて』(紀州路) |
這入りたる虻にふくるる花擬宝珠 炎天の空美しや高野山 昭和五年七月十三日 旭川、鍋平朝臣等と高野山に遊ぶ。 |
昭和二年の作。同二十六年六月、この句碑が高野山金剛峯寺境内に建てられた。高さ六尺の角碑で、彫も深く、どっしりとしたものである。(高野山森白象氏報) |
昭和27年(1952年)5月25日、星野立子は虚子の句碑を見ている。 |
ゆうべ堺の辻本さんから電話で帰途に福助足袋の工場 へお立寄りすることが約束されたのであつた。初めての 高野山であるから案内されるまゝに奥の院へもゆき、父 の句碑も見地蔵院も訪ね、普賢院では池内の伯父の法要 も願ひ、大門の方へも行つて見た。 早寝の父の静かになつていまつた後を句会。 追々と減りゆく人数夜の秋 |
昭和35年(1960年)、山口誓子は虚子の句碑を見ている。 |
玉川を渡って奥の院に到り着けば、右へ折れたところに虚子の句碑が立っている。御影石の背の高い角柱碑である。 炎天の空美しや高野山 昭和五年の作。真夏の高野山に来て見ると、炎天の空がある。高山の炎天の空は微塵のけがれもなく、その美しさは極まっている。それを「炎天の空美しや」と詠嘆したのだ。その詠嘆は直ちに、読む者を動かす。 「高野山」がただ高山だからではない。法(のり)の山だからである。 高野山を詠ってこれ以上の句はない。今後も出ることはあるまい。 建立は昭和二十六年。石の割合に字が小さい。
『句碑をたずねて』(紀州路) |
昭和44年(1969年)11月11日、星野立子は再び虚子の句碑を見ている。 |
十一月十一日 お山の寒さに驚く 午前中を坊の奥様の御案内で 奥の院へ |
炎天の空美しや高野山 虚子 |
右の句碑に再会。どうも句碑の位置が前と違っているように思う。 |
延宝2年(1674年)8月5日、西山宗因は奥の院の御廟を参拝している。 |
五日に、入道して御廟をおがみ奉りて、亡親ならびに六親万霊に水を手向、香をひねりて、西方浄土の願後仏出世の暁をいのりて、 |
入月や爰にとゞまる高野山 | 宗因 |
「高野山詣記」 |
昭和5年(1930年)8月4日から8日に亙り、高野山の清浄心院で第6回アララギ安居会を開いた。 |
高野山 八月四日より八日に亙り、紀州高野山清淨心院に於て第六回 安居會を開く ふりさけて峠を見ればうつせみは低きに據りて山を超えにき ひとときに雨すぎしかば赭くなりて高野の山に水おちたぎつ 紀の川の流かくろふころほひに槇立つ山に雲ぞうごける 高野山あかつきがたの鉾杉に狭霧は立ちぬ秋といはぬに
『たかはら』 |