弘仁7年7月高祖弘法大師嵯峨天皇の勅許を得て高野山を開創して總じて一山を金剛峯寺と號しました。
天正廿年(西紀1592年)豊臣秀吉公應其上人に命じ興立し清巖寺と稱號を付し爾来連綿として一山寺務検校の住持となりました。
當寺は再三火災により焼失、現在の本殿は文久2年(1862年)再建されたものであります。
明治元年9月19日御達を以て学侶、行人、聖の3派の名目を廃して金剛峯寺と公稱し、檀上、奥之院をふくめ一山を代表する名稱となりました。
主殿東西30間、南北35間、奥殿、別殿、新書院、經藏、鐘楼、勅使門、正門、下門、真然堂、護摩堂等の建物が並んで、境内総坪数48,295坪、廣さと美しさを尽しております。
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蟠龍庭

この庭園は奥殿を中心に500余坪に及ぶ我が国最大の石庭である。
勅使門より観るに左に雄龍右に雌龍を配し金胎不二を表す。
全面に京の白川砂が敷き画かれた青海波大雲海となる。
組まれた名石は大師練行の聖地四国の霊石である。
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四季の中庭

江戸期に造られた庭園で、高野山の四季折々の風景が眺められます。
「高野槙」は悠仁親王殿下のお印となっております。
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寛文6年(1666年)4月25日、芭蕉の主君良忠(俳号蝉吟)は25歳で没し、芭蕉は蝉吟の位牌を高野山報恩院に納める使者を務めたという。
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寛文六年四月といふに、思ひ掛けずも、主計(かずへ)失せられけるに、宗房、其のなき主の遺髪を首にかけて、高野山に登りをさめしより(愚按、高野山の宿坊、報恩院の過去帳に、遺髪の御供、松尾忠右衛門殿と記せり。)
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延宝2年(1674年)8月4日、西山宗因は高野山に参詣した。
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高野まふでにいざなふ人有て、延宝二年八月三日、和泉国万町と云山里にやどりて、
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「高野山詣記」 |
貞亨元年(1684年)、大淀三千風は高野山に登っている。
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○貞亨元子春。高野山にのぼる。宿坊西谷戒光院につく。住衲所望により山の記をかく。記略。主も余に餞別の小序に一句を添たうびし。
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貞亨5年(1688年)春、芭蕉は杜国と高野山を訪れている。
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元禄7年(1694年)10月、其角は高野山を訪れている。
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卵塔の鳥居やげにも神無月
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昭和27年(1952年)5月25日、高浜虚子は金剛峯寺の俳句大会に臨んだ。
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虚子翁は昭和二十七年五月、叡山における御両親の法要を済ませた後、同月二十五日、金剛峯寺の俳句大会に臨まれた。この日、会衆四百人という盛会で、
千株の金剛峯寺の牡丹かな 虚子
などいう華やかさであった。思えば曾て芭蕉は、二十三歳で主公藤堂蝉吟の早世に遭い、悲嘆のうちに遺髪を奉じ、これを高野山報恩院に納めて帰ると、主家を退き、伊賀の故郷を後にしたのであった。それから二十三年の後、元禄元年芳野紀行の途次、杜国とともに高野山に詣で、「父母のしきりに恋し雉子の声」の吟を遺した。池大雅の筆に成るその句碑が今も奥の院に苔蒸して居る。安永四年(一七七六年)の建立で、碑陰には雪中庵三世蓼太の雉子塚の銘が刻んである。あれこれ俳諧に連なる今昔の情景が偲ばれる。
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人の世の今日は高野の牡丹見る
五月二十五日 金剛峯寺。
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昭和55年(1980年)11月15日、森寛紹は金剛峯寺第四百六世座主となる。俳号白象。
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