慶長3年(1598年)利家の後をついで加越能三国の太守となった前田家二代の藩主利長は慶長10年封を利常に譲り富山城に隠居したが、慶長14年3月同城は火災にかかり新たに高岡に築城して町づくりを行った。設計はキリシタン大名高山南坊右近が行い、約半年後の同年9月13日に入城した。総面積71,261坪(内水濠22,400坪)あり、城内は、本丸、二の丸、鍛冶丸、三の丸、明丸などに分かれていた。 慶長19年5月、利長薨りしまもなく廃城となり、明治維新後民間に拂下げされんとしたが、時の高岡区長服部嘉十郎らの奔走により、明治8年7月公園として保存されることになった。昭和14年7月富山県史蹟に指定、往年の水濠そのまま遺存水のある城趾公園として全国にも稀である。 |
高山右近(1551−1615)諱は長房・通称は右近大夫・洗礼名はジュースト・茶道では南坊と号した。織田信長・豊臣秀吉に抜擢され明石12万石の大名となり、切支丹禁令を拒否して追放されたが、細川忠興の斡旋により秀吉の内諾を得て、加賀藩に1万石以上の高禄で迎えられた。前田利家・利長は、茶聖千利休門下で南坊と相識り知己であった。 高岡市の開祖前田利長が隠居後の慶長14年に築いた高岡城は、築城の名手高山右近が縄張した独創遠大な構成で、江戸城・大阪城に比肩すると評される名城である。公は天下の大勢を洞見し、徳川・豊臣家の抗争再燃を憂慮して万々一の有事に備える深謀の築城であった。 徳川幕府の禁令は、愈々厳しく、慶長19年正月右近が国外追放となり、在藩26年の恩遇を深謝して告別した。11月に呂宋に渡ると大歓迎を受け、令名はスペイン・ローマまで轟いたが、間もなく悪疫に冒されて翌元和元年正月数奇多難の生涯を終った。 高岡市民は利長公と高山右近異体同心の苦衷を偲び、敬慕の至情は綿々子々孫々に及んで永遠不滅である。 |
北西5粁の二上山にこの神の降臨は、悠久の古代に属し詳らかでないが、天武天皇の3年(675年)正月奉幣に興られた傳承を以て鎮座の年と定めた。次いで慶雲3年初めて新年奉幣の例に入り、宝亀11年從五位下の神階に叙せられ、延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた。 やがて戦國の世屡々兵火に罹り頽廃したが、前田利家・利長の保護により輪奐を改め、明治4年國幣中社に列した。 維新の神佛分離規制に從い且つは広く県民の崇敬に迎えられ、寺坊所管の二上を離れて明治8年9月現在地に遷座せられた。 |
明治29年(1896年)、米治一(こめじいち)は富山県高岡に生まれる。 大正2年(1913年)、東京美術学校予備科に入学し、高村光雲に師事。 大正8年(1919年)、東京美術学校塑像部を卒業。 |
昭和50年(1975年)、建立。米治一制作。 昭和60年(1985年)2月4日、米治一は89歳で没。 |
昭和8年(1933年)11月1日、与謝野寛・晶子夫妻は宇奈月温泉訪れ、3日富山、5日高岡へ。 |
高岡の街の金工たのしめり詩の如くにも鑿の音を立つ 鋳物師よ楽しかるべしみづからの釜一つにも試めさんとする 鋳物師の道もたふとし釜ごとに一つの型のくづされてゆく 高岡の城の公園しづかなる水と紅葉を路めぐりゆく |
高岡の櫻の馬場のもみぢ葉の中行く人となりにけるかな 高岡の古城にのぼり連山のあきのゆき見る友の法師と 館などさもあらばあれうみ越えて羅津に對て本丸の松
「いぬあじさゐ」 |
高岡の街の金工たのしめり詩のごとくにも鑿の音を立つ | 寛 |
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館などさもあらばあれ海こえて羅津に対ひて本丸の松 | 晶子 |
近代的生産都市高岡は、また萬葉の昔から文化のかおりゆかしい地でもある。 一世の歌人與謝野寛・晶子夫妻も昭和8年11月親しく当地に遊び古城公園や鋳物工場でかずかずの歌をのこした。いずれも高岡の今昔を浮彫にして、ここに住む人、訪う人の感懐をそそる名吟である。 うち2首を選んで碑に刻み永く後の代に伝えることにした。 |