南砺市指定文化財史跡 |
寿永2年(1183年)砺波山の合戦で、木曽義仲軍に加わり、平家の大軍と戦い活躍した石黒太郎光弘が、この地に城を築き、以来およそ300年間石黒党は栄えた。一族の福光五郎、彦二郎らもここに住み、その城域は広く、濠も東西27間、南北16間あり、城の周囲は城下町として繁盛していた。 文明13年(1481年)石黒氏は、井波瑞泉寺一向宗徒と争い敗れ、その後の城域は荒れ放題となっていた。 慶應の頃(1865〜68)前村札蔵、波多易直らが、学問奨励のため漢学者宮永菽園、弟の半仏両人を福光に招き教えを仰いだところ、弟子が増え明治2年(1869年)にこの荒れた城址の一角に郷学所を建て栖霞塾と称し、地方の学問の中心とした。今は栖霞園として町民の憩いの場となっている。
南砺市教育委員会 南砺市文化財保護委員会 |
九月十六日。暑し。朝八時、勝山を出て逆行富山に向ふ。高田よ り山口花笠と同行。其月等と句会。 蜻蛉のさらさら流れ止まらず |
この句は大正十三年九月十六日、栖霞山荘に於ての吟詠である。高さ四尺三寸の角碑で、昭和二十九年六月、福光俳句会の建設に成る。栖霞園は、もと紀州藩の儒官宮永菽園が造営し、明治初年前村謹堂によって再興されたものであるが、その後また荒廃し、現在復旧中である。 |
其月君の俳句は正直でよかつた。その頃は國民新聞の俳壇を私は擔當してをつた。其月君の投稿は投句家の中で目立つてをつた。 蜻蛉のさらさら流れとゞまらず 虚子 といふその時の即景の句を、後ちに其月君の甥になる人の請求で私は其月君を記念する爲に送つた。それが石に刻まれて立つてをるといふことである。
「再び金澤に行く」 |