鳥取砂丘。 秋風や浜坂砂丘少し行く |
俳人 小説家 松山市生まれ。正岡子規に師事して俳句をはじめ、明治31年より俳誌『ホトトギス』を主宰する。花鳥諷詠の客観写生を説き、同誌の全盛を築くとともに多くの有力俳人を育成し、現代俳句の第一人者として君臨した。 この句は、昭和7年10月 野火吟社が虚子一行を鳥取砂丘に招いた時の作品である。 |
午前愛宕下谷氏の病院に徃く。待合室にて偶然新聞紙を見るに、有嶋武郎波多野秋子と輕井澤の別莊にて自殺せし記事あり。一驚を喫す。
『斷腸亭日乘』(大正12年7月8日) |
小説家。東京生まれ。明治43年、武者小路実篤らが創刊した『白樺』の同人となり、32歳で文学活動をはじめる。その後、同誌を中心に活躍し、『或る女』『生れ出づる悩み』など大正文学の傑作を数多く残した。 大正12年4月、水脈社主催の自由大学講座の講師として来鳥、30日に鳥取砂丘に案内されてこの歌を詠む。帰京してから1ヶ月余り後の6月9日、軽井沢の別荘で愛人と情死し、社会に大きな衝撃を与えた。鳥取砂丘はこの歌によって一躍有名になったといわれる。 |
昭和2年(1927年)8月、野口雨情は倉吉音楽協会に招かれ、鳥取砂丘に遊んだ。 鳥取砂丘「西口」から「夜景スポット」に向かうと、右手に「武郎晶子佗涙の地」がある。 |
濱坂の遠き砂丘の中にして |
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佗びしき我を見出つるかな | 有島武郎 |
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砂丘踏みさびしき夢に与かれる |
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われと覚えて涙流るる | 与謝野晶子 |
昭和5年(1930年)5月24日、与謝野鉄幹・晶子夫妻は鳥取砂丘を訪れた。 |
沙丘をば支へんことを思ひ立ち苦菜濱ごう二寸の芽吹く 砂丘踏みさびしき夢に與かれるわれと思ひて涙流るる ここに來し友先づあらず然るのちその兄弟(はらから)の見してふ砂丘
「落葉に坐す」 |
昭和31年(1956年)10月28日、水原秋桜子は鳥取砂丘を訪れている。 |
名高い砂丘は実に茫漠としたもので、幾多の起伏の果てに、濃い藍色をたたえた日本海が見える。このとき雨は小降りになったので、砂の上は歩きやすいままに、私達も四五町歩いてみたが、それ以上歩く気にもならずに引き返した。ここを縦横に闊歩した草堂君や民郎君は実に大雄猛心の持主と感服せずにおられなかった。
「山陰行」 |
昭和34年(1959年)1月、山口誓子は鳥取砂丘を見に行った。 |
鳥取砂丘 大物量砂丘を雪の覆ひたり 寒風の砂丘今日見る今日のかたち
『方位』 |
昭和35年(1960年)10月10日、星野立子は鳥取砂丘を訪れる。 |
月照寺に集り、松江玉藻発会。時間に追われ、鳥取に向う。伯耆 大山を見るのも二十余年ぶりである。午後鳥取着。すぐに砂丘へ。 趣がすっかり変ってしまったと思う。松江からこちらは思い出を追 うばかりでただただなつかしく、一歩一歩を大切に歩く。小銭屋別 館に投宿。 |