鳴虫山に雲がかかると雨が降るという。
この碑の正面はるか前方最も高くまるい峰が鳴虫山です。若山牧水先生は大正10月28日群馬県より金精峠を越えて日光町に足跡を印しました。湯元に一泊、29日中禪寺一泊、30日には馬返より電車に乗り、窓から鳴虫山を眺め、鹿の話などを聞きながら日光町板挽町(現日光市匠町)の友人斎藤氏宅に到り、二泊。11月1日宇都宮市に向って出発されました。その間数首の秀歌を詠まれ、その中の一首がこの碑の歌です。
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歌碑の正面はるか前方の鳴虫山

自然を愛する心を養うよすがにもと先生自筆のまま石に刻み、鳴虫山を望むこの地に歌碑を建立しました。
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はっきり読めなかったので、正確ではない。
歌碑の前に簡単な説明が書いてあった。
若山牧水歌碑
大正11年10月、群馬県より金精峠を越えて来晃。馬返から電車に乗って、鳴虫山を眺めた時の歌。牧水の自筆である。昭和48年7月15日、日光市清滝星野利一氏・日光市文化財保護委員会・日光市・花石町自治会が建立。
日光文学碑散策路 昭和61年設定 日光市 |
大悟法利雄『牧水歌碑めぐり』によれば、64番目の牧水歌碑である。
牧水は『みなかみ紀行』の旅の後、中禅寺湖畔米屋に1泊し、さらに米屋旅館主人の親類で下野新聞の記者、板挽町(現・日光市匠町)の斎藤雄吉宅に2泊している。
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大正11年の秋、10月末から11月初旬にかけて、我が斉藤家に有名な歌人の若山牧水がやってきて1週間ばかり泊まっていった。斉藤さんの歌の先輩の喜連川の高塩背山のその上の大先生が牧水で、斉藤さんは牧水のまた弟子というところなのだそうだ。
井上文雄の手記 |
大正11年(1922年)10月31日正午、牧水は斎藤雄吉宅から奥さんに絵葉書を出している。
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「これより御宮拜觀」とあるから、牧水は昼から東照宮を拝観したと思ったが、田母沢御用邸のようだ。
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斉藤家に逗留している間中、牧水は朝から晩までほとんど飲み通しで、わずかに或る日田母沢御用邸を見に行ったことが一度だけあったくらいである。1週間ほど滞在していた牧水は上州以来親しんできたわらじを、今度は斉藤さんの用意した新調の「日光下駄」に履き替え汽車で帰っていったのである。
井上文雄の手記 |
「1週間ほど滞在していた」というのは記憶違いであろう。この後、牧水は喜連川の高塩背山に会いに行く。
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