弘経寺の蕪村の句碑は見たが、砂岡雁宕の句碑は見ていないので、あらためて訪ねてみた。 |
祖父宗春、父我尚ともに俳人として知られた砂岡家に生れ、江戸にて父の俳友早野巴人(宋阿)に俳諧を師事する。 師宋阿共々低調卑俗に陥りがちな当時の俳風の革新に情熱を傾けたが、師の歿後は当地に戻り俳書の編著等により結城の文壇に大きな影響を与える。俳聖芭蕉を慕い奥羽の旅に出るなどし、彼自身も常総野を旅したときの紀行文「雫の森」を残している。 明和8年(1771年)には江戸俳壇の巨匠大島蓼太との間で一大俳論を戦わせるなど、師と同じく俳風改革の壮図を試みたが、志半ばにして安永2年7月不帰の人となった。 彼の編著による俳書は次のとおりである。 〇反古衾―箱島阿誰と共編 ○夜半亭発句集―師宋阿十三回忌の追善句集 阿誰・中村大済と共編 ○雫の森―雁宕著の紀行文 ○蓼摺古義―蓼太の「雪おろし」に対しての俳論書 ○俳諧一字般若―蓼太の「遲八刻」に対しての俳論書 ○津軽俳壇―奥羽旅行の紀行文 ○たままつり―雁宕十三回忌の追善句集 また、結城地方にて十年を過した蕪村は、師宋阿の下で共に学んだ間柄であり、寛保2年(1742年)江戸の俳風を嫌った蕪村は雁宕の俳風・人柄にひかれ来結したという。早くから蕪村の非才に嘱望していた雁宕は、蕪村の庇護につとめ当寺への寄寓を世話したり、結城一帯の俳人等に紹介するなどしたが、その中の一人で、蕪村が私淑し、その死に際し「北寿老仙をいたむ」と詠んだ早見晋我は雁宕の叔父にあたる。 蕪村七部集の中には雁宕の句がとりあげられている。 寺々の古きすすりやけふの月
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