元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭長矩は江戸城の松之大廊下において吉良上野介義央に対して刃傷におよんだため、即日切腹を命じられた。平川門から切腹場所となった芝田村町の一関藩屋敷に向かった。 |
平河門は、江戸城内部門の一つで、三の丸から場外への出口にあたり、御三家・御三卿はここから登城しました。現在の九段南1丁目や一ツ橋1丁目は、平川村と呼ばれていたため名付けられました。別名「不浄門と呼ばれるのは、城内の死人や罪人がここから出されたことに由来します。 |
寛正五年春江戸ノ城将太田道灌公カ上洛参朝ノ際居城ニ就キ 勅問ニ奉答シタルノ歌ニ我庵は松原つつき海ちかく富士の高嶺を軒端よそ見るノ一首アリ城ハ東ニ川ヲ帯ビ南ハ海ニ臨ミ西ハ丘陵起伏シテ遥ニ富士ノ秀峰ヲ仰ク歌ハ誠ニ能ク其ノ景勝要害ヲ盡クセリ公名ハ持資関東管領上杉定正ノ重臣タリ幼ニシテ聰邁尊王ノ志ニ篤ク文武ノ道ニ通シ兵馬ノ技ニ精シク築城ノ術ニ長セリ長禄元年城ヲ江戸氏ノ館址ニ築キテ百代名城ノ基ヲ創メタリ爾来此ニ居ルコト三十年能ク主家ヲ扶ケテ英名大ニ振ヒ八州ノ群豪風ヲ望ンデ來リ従フ常ニ力ヲ民治ニ效シ文事ヲ奨メ徳化四周ニ普ク遠近ノ士庶陸続トシテ來往シ店舗軒ヲ連ネ船舶河口ニ集ル文明十八年公ハ讒ニ遭ヒテ相州糟屋ノ主家ニ斃レタリト雖其ノ城池ハ依然トシテ關東第一ノ形勝タリ徳川氏ノ覇府ヲ經テ明治ノ 聖代ニ及ヒ畏クモ 皇居ヲ此ニ奠メラレ江戸ハ東京ト改稱セラレテ日ニ月ニ殷賑ヲ加ヘ今ヤ世界第二ノ大都市トナレリ是レ實ニ端ヲ公ノ築城ニ發シタルモノニシテ千古不朽ノ功業ナリト謂フヘシ 茲ニ公ノ四百五十年祭ヲ行フニ方リ碑ヲ舊城ノ邊ニ建テ市民ノ永ク遺徳ヲ追頌スルニ資セントス 昭和十一年七月二十六日
東京市長 牛塚虎太郎 |
左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(1457年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度550年に当たります。 この記念すべき時に当たり、都市東京と千代田区の今日の繁栄の基礎を築いたとも言える太田道灌公の遺徳を偲んで、顕彰の標(しるし)とします。 |
太田道灌(1432〜86)は、室町中期の武将で歌人。名は、資長(すけなが)、道灌は法名。扇谷上杉家の重臣。1457年、この千代田の地に江戸城を築く。文武両道に優れ、30数戦して負け知らずの名将だったが、山内上杉家の策謀により主君に暗殺された。江戸時代から語り継がれた山吹伝説の歌が、悲劇の名将の横顔をいまに伝えている。
千代田区観光協会(協力) |
七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき
千代田区 |